復活であり命である主

4月25日の説教

梁在哲牧師

 

ネヘミヤ記2章11~18節   ヨハネによる福音書11章17~27節

イエスが死んだラザロを生き返らせてくださった奇跡の出来事は、ヨハネによる福音書のみ記されている。福音書の記者は、ラザロの復活を通して永遠の命を先取りにして示している。さて、イエスがご覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた(ヨハネ11:17)。マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行った(20節)。ところが、イエスのお言葉とマルタの答えの間には、大きな隔たりがあった(21~24節)。そこでイエスは、マルタに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われた(25~26節)。マルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と告白した(27節)。今も主は、わたしたちの信仰告白と共に聖霊の働きを通して、永遠の命が与えられるように願っておられる。 

ラザロも結局、復活した後、また死ぬことになる。しかし、まことの葡萄の木の枝のように、復活であり、命である主に結ばれたラザロに永遠の命が与えられた。父なる神は、御子イエスに結ばれた者に永遠の命をお与えになるからである(ヨハネの手紙Ⅰ 5:11~12)。私どもの南房教会の今年度の標語、「神にとどまる教会」は、まさに、まことの葡萄の木の枝のように主につながる教会を掲げている。永遠の命とは、単なる死後の時間の延長ではなく、永遠なる神の御旨の中にあるその時間に入ることが許されるものである。それゆえ、使徒パウロも「今とは異なる状態に変えられる」永遠の命の神秘を証した(コリントⅠ 15:51)。命の源でおられる主は、命を回復させることをもお出来になるゆえに、ご自分を信じる者に永遠の命を約束してくださった(ヨハネ14:18~19)。わたしたちは、主のご約束に励まされ、永遠の命への望みを抱きつつ、地上の旅路を歩み続けたいと願う。

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