ヨナにまさる主

4月18日の説教

梁在哲牧師

列王記上17章17~24節    マタイによる福音書12章38~42節

そもそも、ユダヤ人たちは、しるしを求める民で(コリントⅠ1:22~24)、ニコデモのようなファリサイ派の議員は、イエスのしるしを「天から来たしるし」だと認めた(ヨハネ3:1~2)。しかし、他のファリサイ派の人々は、信仰のためではなく、ただイエスを罠にはめようとしつこくしるしを求めた(38節)。彼らの邪な要求にイエスは、ご自分の「十字架の死と復活」をヨナに例えられた(39~40節)。ニネベの人々は、ヨナの伝道によって悔い改めたゆえにユダヤ人にまさり、シェバの女王も地の果てからソロモンの知恵を聞くために来た(列王記上10:1~10)。ところがユダヤ人たちは、訪れて来たキリストの福音を拒否した。そこでイエスは、「ここに、ヨナにまさるものがある」と言われた(41節)。

ファリサイ派の人々は、悪意に満ちてイエスにしるしを求めた。しかし、父なる神は、御子イエスにその従順さのゆえに、「あらゆる名にまさる名」をお与えになった(フィリピ2:6~9)。「あらゆる名にまさる名」は、父なる神が共におられる「天のしるし」に他ならない。神はイスラエルの民がその名を呼んで祈り、礼拝出来るように、神殿にご自分の名を置いた(エレミヤ7:13)。しかし、彼らは神の名を呼ぶ真の礼拝を捧げず(ローマ10:13)、神の名が置かれた神殿にしがみつき、空しく主の神殿を連呼しながら、神の名を呼ばなかった(エレミヤ7:4)。その連呼は空しい言葉であり、自己中心と偶像崇拝に他ならない。神より大事にしている様々なものが心の中に神々となっていたからである。わたしたちは、心の中心を主に明け渡すことが出来るように聖霊の御助けを求めつつ、父なる神が御子イエスにお与えになった「あらゆる名にまさる名」を真心をもって絶えずに呼び求めたいと願う。

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