地の塩、世の光り

6月13日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書60章19~22節  マタイによる福音書5章13~16節

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ 捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(13節)。イエスは、山の上で八つの幸いを語られた後、信じる者の務めを塩にたとえられた。当時、ユダヤでは、塩は、食物が腐敗するのを防ぐと同時、神への献げ物すべてにかけられていた(レビ記2:13)。また、王様から塩を授けられることは、信頼されている証拠であり、塩とパンを一緒に食べることは、同盟関係の表わすものであった。そのように塩は信頼と約束のしるしや清めの象徴であった。イエスは、信じる者の務めを庶民でも分かるように塩を挙げられ、世の腐敗を防ぎ、味付けの役割を果たすように語られた。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」(14節)。キリストは、まことの光りとして世に来られ、すべての人を照らし、信じる者は、その光に照らされ、世を照らす(ヨハネ1:8~9)。神は「光あれと言われ」(創世記1:3)、光は創造され、全ての物の正体を明らかにされた。塩は物にかけられ、光は自ら、果てしなく素早く照らし、その役割を果し、両方共に新しい力を世に示すものである。

「また、ともし火をともして升の下に 置く者はいない。燭台の上に 置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」(15節)。山上の村は、周りを明らかにする光のような存在で、その家の中の燭台は、教会を示し、福音は山上に確かに建てられた教会を通して伝えられると、イエスは、たとえられた。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(16節)。燭台の光りが家中を輝かすように、あなた方も光として世を輝かしなさいと主は言われた。主は無理やりに善行を行うのではなく、光の中で行い、光のゆえに行う時、自ずとその光は、輝くのだと言われた。光を輝かすことは、まことの主の光りに照らされ、光の子となり、世の光りとして主に栄光を帰すためである。使徒パウロも、地の塩のように、「キリストに仕え、神の秘められた計画を委ねられた忠実な管理者として」また、世の光りのように、「闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされる」キリストのまことの光りを輝かす、「使徒の使命」を証した(コリントⅠ4:1~5)。わたしたちは、地の塩、世の光りとして各々の務めを全うし、主が再び来られる時、主からお褒めにあずかりたいと願う。

前回 目次へ 次回