第六戒の完成

6月20日の説教

梁在哲牧師

 

申命記26章1~11節     マタイによる福音書5章21~26節

イエスは、ご自分は、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するために世に来たと言われ(マタイ5:17)、その完成について、具体的な例を挙げられた。それは、「殺してはならない」(出エジプト20:13)と言う、第六戒であった。第六戒は、単なる倫理的かつ道徳的な戒めではなく、神ご自身にかたどって創造された人間(創世記9:6)を殺し、神の主権に真正面から挑み、逆らう罪を禁じるものである。ところが、イエスはその第六戒よりもっと進まれ、心の怒りから出て来る立腹や悪口を厳しく禁じられた(22節)。人間の心の怒りと憎しみは、殺人にいたることをご存じでおられたからである(ヨハネの手紙Ⅰ3:15)。人間の怒りは、愛のない過激な言葉や性急な行動によって触発され、神の義どころか、自分の義さえ、成し遂げられなくなる。しかし、神の怒りは、人間の不従順、偶像崇拝、むさぼり、みだらな罪のゆえに発せられる「聖なる怒り」である。

父なる神の聖なる怒りは、御子イエスの十字架の死とご復活を通して人間の罪を贖ってくださり、ご自分の正しさ、即ち「神の義」を成し遂げられた。それゆえ、御子イエスは、父なる神の義を通して律法と預言者を完成させられた。イエスは、人から反感を買われ、また人に恨みを抱いたまま、捧げるものは、神に受け入れないゆえに、先ず祭壇にて仲直りし(23~24節)、もし、出来なくなったら、裁判所に行く途中の道端でも和解しなさいと、勧められた(25節)。イエスは、神の御前で厳しい審判を受ける前にあなた方は、人生の道端でも兄弟姉妹と和解しなさいと、言われた。わたしたちは、生涯一回限りの洗礼によって罪を赦され、主日礼拝と聖餐式ごとに「今日も罪を赦していただいた」と、再び確かめつつ、世に遣わされる。わたしたちは、十字架とご復活を通して父なる神の義を成し遂げられ、律法を完成させられた御子イエスを仰ぎつつ、聖霊の御助けによって「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と、祈り続けたいと願う。

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