神の国と神の義

6月27日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書49章14~21節   マタイによる福音書6章22~34節

イエスは、世の悩みから抜けられない弟子たちに、悩みの源は、心の目の分裂にあるゆえに、神と富の二人の主人の中、一人を選ばねばならないことを悟り、思い悩むなと、厳しく戒められた(25~31節)。また、世の物を求めることしか出来ない異邦人に倣わず(32節)、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と命じられた(33節)。ソロモン王も神に長寿や富、また敵の命を求めず、ただ「聞き分ける知恵」を求めたのに、神は、富と栄華を加えて与えられた(列王記上3:9~13)。父なる神は、御子イエス・キリストの十字架の死とご復活を通して、ご自分の義を成し遂げられた。それゆえ、キリストに結ばれ、新しく創造された者は(コリントⅡ5:17)、「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたまふ」と告白することを許される(日本基督教団信仰告白)。

そのようにキリストに結ばれた者は、イスラエルの民が奴隷であったエジプトの国から解放されたように、キリストが身代金として払われ、罪と死の奴隷の国から解放され、神の国に入ることを許される。それゆえ、キリストによって贖われた者は、ボロボロの奴隷の古着を脱ぎ捨てて、新しいキリストの晴れ着、義の衣を着て(ガラテヤ3:27)、キリストの芳醇な義の香りを放ち(コリントⅡ2:15)、神の御前に出ることを許される。これこそ、主が命じられた神の国であり、神の義に他ならない。それゆえ、わたしたちは、「この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」と告白することを許される(日本基督教団信仰告白)。聖霊は、わたしたちの内に働き、神の救いを信じさせ、溢れる感謝の果、義の果を結ばせてくださるからである。主より「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と、命じられるわたしたちは、聖霊の御助けを求めつつ、感謝をもって神と隣人を愛し、福音伝道に励み、神に喜ばれる生涯を生み出したいと願う。

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