祈りに励みなさい

7月4日の説教

梁在哲牧師

歴代誌下6章12~21節     マタイによる福音書7章7~12節

イエスの山上の説教、殊に空の鳥や野原のお花の例えを聞いたある者は、それを間違って受け入れ、「自分は何にも求めなくても良いじゃないか」と思い込んだかも知れない。主は、そのような人々に、「祈りに励み、切実に求めなさい」と、お答えを与えられた。主は、先ず求めるようにお勧め、与えられることを信じ、悪い者でさえ、自分の子どもには、石のような無益で、蛇のように有害なものではなく、良い物を与える例えを挙げられた(マタイ7:7~10)。人々は何か欠けていることを求め、失われたものを探し、閉ざされているところをたたくのである。主は、神に祈ることを「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」と例えられ、しかも、三度にわたって繰り返し、切実に求めるように勧められた。主ご自身、最後の晩餐の後、オリブ山で三度目も同じ言葉で祈られた(マタイ26:44)。使徒パウロも、自分の体のとげを離れ去らせてくださるように三度主に願った(コリントⅡ12:8)。それは無意味な繰り返しではなく、先ず心の中から願い、行動に移し、探し求め、門をたたき、主に出会い、直談判するようなことである。だからと言って何でも求めれば、無条件に与えられる訳ではない。「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからである」(ヤコブ4:2~4)。

親は、自分の子どもに良い物を与えようとするが、しかし、彼らの願いに振り回されない。そのように父なる神は、わたしたちの求めを遥かに超える良い物、即ち聖霊を用意してくださる(11節・ルカ11:13)。その良い贈り物、完全な賜物は皆、光の源である御父から来るものである(ヤコブ1:17)。最後に主は、神に何かを求める者は、隣人にも与えるように求められ、それこそ、律法と預言者であると言われた(12節)。律法全体と預言者は、心と精神と思いを尽くして主を愛し、人のことを自分のことのように思い、自分のように愛する、この二つの掟に基づいているからである(マタイ22:37~40)。主は、正にその黄金律(12節)によって仕えられるためではなく、仕えるために世に来られ、全ての人のため、ご自身贖罪のいけにえとなられた。わたしたちは、「絶えず祈りに励みなさい」と言われる御子イエスに従い、「御心の天になる如く地にもなさせたまえ、我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」と祈りつつ、父なる神から贈られる聖霊の義の果を結ばせ、神に喜ばれる生涯を生み出したいと願う。

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