神のものは神に返しなさい

10月10日の説教

梁在哲牧師

 

申命記4章1~8節     マタイによる福音書22章15~22節

ファリサイ派の人々は、ヘロデ派の人々を連れて来て、正直さを装い、イエスに媚を売った(16節)。彼らは、イエスにへつらい、罠にかけようと、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と追い詰めた(17節)。もし、イエスが税金を納めなさいと言われたら、ファリサイ派の人々は反発し、イエスはメシアではないと断定でき、そうなれば人々から嫌われるようになる。一方、納めないように言われたら、ヘロデ派は、反発し、ローマへの反逆の罪と見做され、逮捕される。両方とも、避けられない罠であった。そこでイエスは、彼らの悪意を見抜かれ、痛烈に責められた(18節)。イエスは、彼らに「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えられた(21節)。全ての権威の源は、究極的な統治者でおられる神にあるからである。それゆえ、使徒ペトロは、「主のために、全て人間の立てた制度に従いなさい」と証し(ペテロⅠ2:13)、パウロも「神に由来しない権威はなく、今ある権威は全て神によって立てられたものである」と証した(ローマ13:1)。主は皮肉なことに彼らのへつらい通り、二者択一の道ではなく、全く新しい「神の道」をお示しになった。

主のお答えは、意外かつ完全な内容であったので、彼らは、不思議に思い、驚いてそれ以上何も追い詰めなくなり、立ち去った(22節)。税金を納めるからといって皇帝の神聖に同調する訳ではないのに、ユダヤ人たちは、皇帝への義務と神への義務の二重の現実を矛盾していると思い込み、受け入れなかった。皇帝に、また神に「返す」という言葉は、ギリシア語で「アポディドミ」、即ち負債を返済する意味を持っている。その意味において、ユダヤ人たちは、ローマ皇帝から施された安定や道路などのインフラ整備の恩恵を返済せねばならい。それと同時に、神からの恩恵をも返済せねばならなかった。ところで、罪と死の奴隷となっていたわたしたちのために、その独り子を身代金として惜しまず、払われた神の恵みをどうやって返済できるだろうか。それは、わたしたちには、到底、返済不可能な負い目であり、負債である。それにも拘わらず、わたしたちは、感謝をもっていただいた御恵みのほんの少しでも返さねばならない。いつも真実に基づき、神の道を教えられる真実な主に倣いつつ、わたしたちは、主から教えられた神の道を周りの人々に、はばかることなく、分け隔てなく伝えることが出来るように切に願う。

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