主がなさった不思議な業

10月3日の説教

梁在哲牧師

 

ヨシュア記6章1~20節    マタイによる福音書21章12~17節

イエスはついにエルサレムに入城され、神殿を清められた。その最後の伝道においてイエスは、救い主の権威を公に宣言され、受難は始まった。入城の翌日、「イエスは神殿の境に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」(マタイ21:12)。鳩は貧しい人が羊の代わりに捧げるものであった。各地から訪れて来たユダヤ人たちは、神殿の税金を収めるため両替をした。それらの商売は、実際、必要なものであったため、最初は神殿の外で行われたが、いつの間にか、神殿の中に入り込み、祭司長と商人たちが結託し、祭司より金儲けに没頭するようになった。腐敗と堕落は、いつも正当な口実のもとで徐々に進められる。そこで、イエスは、神殿の本質が酷く冒瀆されている様子をご覧になり、激しく怒られ、お叱りになった(13節)。その後、神殿は、イエスによって祈りの家として神の憐れみと御力が現わされ、目の見えない人や足の不自由な人たちが癒されるようになった(14節)。

他方、サドガイ派の祭司長たちとファリサイ派の律法学者たちは、互いに蔑視し犬猿の仲であったが、敵対しながらも、意外に「イエスがなさった不思議な業を見、境で子供たちまで叫んで、『ダビデの子にホサナ』と言うのを聞いて腹を立てた」(15節)。マリアが主に捧げた高価の香油は、イスカリオテのユダの心の中に憤りを起こした。一方、主の不思議な業と子どもたちの讃美は、祭司長たちや律法学者たちの憤慨を起こした。真理から外れていた彼らの心は、主の真理のお働きを見聞きし、むしろ、激しく揺れて腹を立てた。そこで主は、子どもたちの讃美こそ、「幼子や乳飲み子の口によって」聖書の御言葉(詩編8:3)が成就されると言われた(16節)。それから主は、ご自分を殺そうとしている宗教指導者たちの恐ろしい陰謀や群衆の騒ぎの中にあるエルサレムを出て、慣れ親しんでいた静かなベタニアに行き、最後の受難の一週間の宿として決められた(17節)。主の不思議な業を見て、宗教指導者たちは、憤慨していた。彼らに「神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」からである(コへレト3:11)。主がなさった不思議な業を測り知ることも、見極めることもできないわたしたちは、只、子どもように喜びをもって主を褒め称えつつ、マリアのように真心をもって主に仕えたいと願う。

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