主のふさわしい賃金

9月26日の説教

梁在哲牧師

 

コへレトの言葉3章1~13節  マタイによる福音書20章1~16節

「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(マタイ19:30)。イエスは、このお言葉を解き明かすために葡萄園の主人に雇われた労働者たちを例えられた。夕方になって、葡萄園の主人は、賃金を払うように監督に命じた。しかし、それは世の常識とは真逆のやり方であった。主人は、「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払う」ように命じたからである(8節)。そこで、五時頃に雇われ、一時間しか働かなかった人たちに一デナリオンずつ支払われた(9節)。聖書は、他の時間帯に来た者の賃金に言及しないが、彼らも同じ賃金を受け取り、不満はなかったと思われる。ところが、朝早く来た者は、午後5時頃に来た者が一デナリオンもらったのを見て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであったので主人に不満を漏らした(10~12節)。主人は、彼らの不平にそれは、正当なもの以上の自分の気前であるのにその気前のよさをねたむのかと言い返した(13~15節)。最初に来た者に約束した一デナリオンの賃金を払うのは、正当なことである。

その一方、最後に来た者にも同じく払うのは、正当なこと以上の恵みであり、それこそ、主人の気前であるからである。朝早く来た者は、葡萄園の主人の正当なこと以上の気前を測り知ることができなかった。それと同じようにわたしたちには、「永遠を思う心」を与えられていても、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない(コへレト3:11)。コへレトの言葉の著者は、時間と空間を超えられる神の御旨と主権を測り知る者は、誰一人もいないことを悟るようになり、神への信仰こそ、彼を懐疑と空しさの泥沼から救った。父なる神は、その独り子を世にお遣わしになり、十字架の死に惜しまず与えられ、死人のうちよりよみがえらせてくださった。しかし、わたしたちにその不思議な「歴史の謎を解く心」を与えられていても、父なる神のなさる業を始めから終りまで見極めることは、許されていない。それゆえ、わたしたちは、それぞれ与えられている「主のふさわしい賃金」の恵みに感謝しつつ、聖霊の御助けを求め、父なる神の御旨に従い、御子イエス・キリストの十字架と復活を証し続けたいと願う。

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