後になる者、先になる者

9月19日の説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記20章1~17節  マタイによる福音書19章16~30節

一人の男がイエスに近寄って来て「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と言った(16節)。彼は、実に世の幸いの条件を全て備えていた金持ちの青年で議員であった。しかし、彼は律法の義においては欠けているところのないと自負しながら、永遠の命への確信を持たなかった(20節)。そこでイエスは、彼に「持ち物を売り払い、貧しい人々に施し、それから、わたしに従いなさい」と命じられた(21節)。ところが、その言葉を聞いた青年は、肩を落とし、悲しみながら立ち去った(22節)。彼にとってそれは、致命的な弱点であったからである。結局、彼は神か財産かの選択の岐路で財産を自分の主人として選んだ。それゆえ、彼は救いから遠ざかったが、徴税人ザアカイと、アリマタヤの出身のヨセフは、金持ちでありながら、イエスの求められた全てに従ったゆえに救いにあずかるようになった。聖書において富は、神の祝福の一部分であり、その祝福は、信仰を伴う富に限られたものである。富を自分のものとせず、神からいただいたものとして施す時、その富は祝福となる。しかし、富は勿論、いかなるものも神より大事にする時、それは偶像崇拝として呪いとなる。

その青年が去った後、主は弟子たちに金持ちが救われるのが如何に難しいことなのかについて言われた(24節)。そして、驚いた彼らに、「救いは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた(26節)。ついにペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と訊ねた(27節)。そこで主は、ご自分が再び来られる時、メシアを十字架に付け、教会を迫害したユダヤ人たちは、教会の審判を受けるようになり、ご自分の名のために全てを捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐと励まされた(28~29節)。しかし、救いにおいてうぬぼれている者は、後になり、後にいる者がむしろ先になると戒められた(30節)。主は、弟子たちの自慢心を警戒したが、殊にペトロには、耳の痛いことであった。救いの世界においてその順番は、時間と空間を超える神の主権のもとにあり、ただ、御旨によって決められる。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」ことは、人間の思い込みが覆られ、地上の生と天国の生が逆転されることである。十字架の上で死にかかりながら、悔い改めた強盗の地上の生と御国の生は、まさに、逆転された(ルカ23:40~43)。誰も天の国の生を自分の力で神にねだり、駆け引きして買い取ることはできない。わたしたちは、ただ、「神は何でもできる」と言われる主のお言葉に全てを委ね、ご命令に従い、地上の旅路を歩み続けたいと願う。

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