七の七十倍までも赦しなさい

9月12日の説教

梁在哲牧師

 

創世記45章1~15節  マタイによる福音書18章21~35節

イエスは、罪を犯した兄弟にどのように向き合うべきかについて言われた後、ペトロから「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と問われた(マタイ18:21)。ところが主は、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われた(22節)。主は口先だけではなく、兄弟への愛からの出て来る赦しの回数に制限はないと言われ、一万タラントンの借金している家来の例えを挙げられた。それは真心をもって兄弟を赦さねばならない理由を明らかにするものであった(23~34節)。一万タラントンの借金は、自分は勿論、家族全部を売っても到底返済できない途轍もない負い目であったので、家来はひれ伏し、只主君の怒りを和らげるためにしきりに願った(26節)。そこで「主君は憐れに思って彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(27節)。神の御前で罪人に求められるのは、只打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心である(詩編51:19)。ところが、この家来は、「自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を 絞め、『借金を返せ』と言った」(28節)。仲間の百デナリオンの借金は、家来が君主から帳消しされた金額に比べたら60万分の1に過ぎない小さい金額であったのに、彼は心を塞ぎ、頑なな道を選んでしまった(30節)。それこそ、神の御前で途轍もない罪を赦された恵みを忘れてしまい、隣人の小さな過ちを赦せないわたしたちの醜い姿ではないだろか。

ついに他の仲間たちが家来の酷い仕打ちに我慢できず、一部始終を残らず主君に告げた(31節)。主君は怒って家来に「不届きな家来だ。お前が賴んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったかと言い、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」(32~34節)。それは、厳しい拷問にかけられる無期限の投獄であった。主は、例え話しの後、弟子たちに「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」と言われた(35節)。このたとえ話は、数字だけに目を奪われ勝ちなものだが、しかし、言葉を換えれば父なる神は、罪と死の奴隷として無期限に投獄されているわたしたちを解き放たれるために、その独り子を身代金として惜しまず払われたことを表わしている。父なる神がわたしたちの罪を、只、御憐れみによって御子イエスの十字架の犠牲を通してお赦しになったゆえに、わたしたちも人の罪を躊躇なく赦さねばならない。しかし、そのように願いながらも、果たして弱いわたしたちにできることだろうか。それゆえ、わたしたちは生涯、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し賜え」と、祈り続ける者でありたいと願う。

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