地上で解く者

9月5日の説教

梁在哲牧師

 

エゼキエル書37章15~28節 マタイによる福音書18章15~20節

イエスは、カファルナウムに滞在中、ある教訓を弟子たちに静かに言われた。主は、先ず自分を低くし、謙遜になること、また、罪を犯した兄弟にどのように向き合うべきかについて、最後に兄弟を赦しなさいと言われた。罪を犯した者は、的外れの矢のように信仰の道から脱線し、失われた者である。主は、そのような者と向かい合う際、先ず、行って二人だけのところで忠告し、もし聞き入れなければ、ほかに二人または三人の証人を連れて行き、それでも聞き入れなければ、教会に申し出をし、教会の言うことも聞き入れないなら、異邦人か徴税人と同様に見なすように言われた(マタイ18:15~17)。その人は、自ら教会の交わりから離れることになり、悔い改めるまでに、彼は教会の外の者と見做される。だからと言って彼らを見捨てる訳にはいかない。教会は、彼らが自分の罪に気づき、悔い改めるまで根気よく祈らねばならい。既に主は、ペトロの信仰告白の後、ご自分の教会(エクレシア)をお建てになり、「罪の赦しの権威」を授けられた(マタイ16:16~19)。

罪を犯した兄弟の問題は、結局、教会の問題となり、教会から勧告を受け、悔い改めれば、彼は天において救われるようになる。もし、そうでなければ、彼の罪は、天においてもつながれたままになる。教会が、地上においてつながれたものを解き、罪の赦しを宣言する時、それは天上でも解かれることになる。それゆえイエスは、「罪の赦しの権威」を弟子たちの共同体である教会(エクレシア)に授けられた(18節)。また、主は教会に「罪の赦しの権威」と共に地上で二人または、三人が心を一つにし、ご自分の名によって集い、祈れば父なる神は、それをかなえてくださり、ご自身も共におられると約束してくださった(19~20節)。何の功もないわたしたちは、主の十字架の血潮の恵みによって罪を赦された。私どものプロテスタント教会において洗礼は、生涯一回限りの罪の赦しであり、聖餐においてその赦しを幾度も確かめ、「地上で解く者」として、主日礼拝ごとに御言葉の解き明かしを通して「今日も、罪を赦していただいた」と新たにされる。わたしたちは、主の復活の命によって古き人を脱ぎ捨てて、新しい人を着て、新しく生きる命の糧をいただき、祈りをもって世に遣わされる者であり続けたいと願う。

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