生きている者の神

11月7日の説教

梁在哲牧師

 

創世記15章1~7節    マルコによる福音書12章18~27節

サドガイ派の人々は、家の跡継ぎが途絶えることのないように、設けられたモーセの掟(申命記25:5~6)を無理やりに引用し、「復活の問題」を持ち込んでイエスの所へ来て、尋ねた。(マルコ12:18)。彼らは、復活を否定するために、極端な例えを挙げて愚かな質問をした(19~23節)。使徒パウロもそのような愚かな問いに、「死者は、蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活する」と証した(コリントⅠ15:42~43)。そこでイエスは、「あなたがたは、聖書も知らなければ、神の力も知らないからそのような思い違いをしている」と言われた(24節)。ところが、その「思い違い」は、彼らだけではなく、全ての不信仰者がしているものではないだろうか。彼らは、神の全能なる力を知らないまま、聖書の真の意味をも分からず、「復活はない」と思い込んでいた。それゆえ、イエスは、死者の中から復活させられる体は、神の力によって変えられ、天使のようになると、説き明かされた(25節)。生きることも死ぬことも、結婚の問題やその他の諸問題も、全ては、神の権威と力の下にあるからである。また、イエスは、神の山ホレブでモーセが神に出会う「柴」の箇所を挙げられ(出エジプト3:2~6)、復活することについて言われた(26~27節)。神はモーセに既に死んだ祖先たちを生きているように「わたしは、あなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの 神である」と、言われた。

生きておられる神は、生かすことも殺すこともおできになる権威と力をもっておられ、復活についても、全ては、神の御手の内にある。それゆえ、神は、「あなたの父が生きていた時、わたしはあなたの父の神であった」とは言われない。もし、父の死によって全てが終わったならば、父の死と共に父の神も死んだはずである。しかし、生きておられる神は、「わたしはあなたの父の神である」と言われ、アブラハムも、イサクもヤコブをも生かし、その神であり続けられる。イエスは、「柴」の箇所に基づき、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と、宣言され、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われた(ヨハネ11:25)。それゆえ、宗教改革者カルヴァンも「わたしたちを将来の命の同伴者とするためにキリストは、よみがえられた」と述べた。父なる神は、御子イエス・キリストの復活を通して今も、とこしえに永遠の命を約束してくださる。それゆえ、わたしたちは、主が再び来られるその日、朽ちないものに復活させられ、永遠の命の栄光にあずからせていただく望みを抱きつつ、地上の旅路を歩み続けたいと願う。

前回 目次へ 次回