天に富を積みなさい

11月21日の説教

梁在哲牧師

 

サムエル記上16章1~13節  マルコによる福音書10章17~22節

イエスが子どもたちを祝福してくださった後、旅に出ようとされると、若い金持ちの議員が、自分の現在の状況に安住せず、永遠の命への道を熱心で、しかも謙遜に尋ねて来た。彼は、永遠の命を受け継ぐためには、子どものようになることより、何か善い業を行わなければならないと思い込み、イエスを善い先生と呼びかけて尋ねた(マルコ10:17)。ところがイエスは、彼に求められるのは、人間の思いから出て来る「善い」ではなく、神から出て来る「善い」であると答えられた(18節)。そして、改めて十戒を取り上げられ、確かめられた(19節)。すると、彼はイエスより言われた十戒の真の意味を知らないまま、自分は幼い時からそれらを守り続けて来たと答えた(20節)。彼は、自分に生きることを捨てて、神に生きる真の意味を悟らなかったからである。使徒パウロも「心では神の律法に仕えながらも肉では罪の法則に仕えている」自分の惨めな姿を嘆いた(ローマ7:25)。そこで「イエスは彼を見つめ、慈しんで『あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に 施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』と言われた」(21節)。「慈しんで」は、原文では、「彼を愛して」となっている。それは、真剣に永遠の道を求めている青年をイエスが深い愛のまなざしで見つめられたからではないだろうか。

主は、財産を捨てることは、天に宝を積むことになると語られた。それは、天の高い所から降りて来られ、十字架の上でご自分を捨てられることによってもたらされるものであるからである(フィリピ2:8~9)。主の愛は、まさにご自分を捨てることによって貫かれ、他の一切を損失と見做すことができるほどの価値があるゆえに、主はそこに天の富があると言われた。使徒パウロもその他の一切のことをちり芥のように見做した。主は、彼の欠けていることを指摘された。それは永遠の命への道を阻み、全ての欠乏の根底にある財産のことであった。青年は捨てることなしには、自分が求めている「永遠の命」に至ることはできないと分かり始めていた。永遠の命は、自分に生きることを捨てて、「神と人を愛する」ことによって、神に生きることだからである。彼は自分の惨めさに気づき始め、気を落とし、悲しみながら立ち去った(22節)。しかし、その悲しみは、主の愛によって、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせられるものになる(コリントⅡ7:10)。自己実現が人生の目標のように思われる中で、青年の姿にわたしたちの姿は、映され、そこに常に欠乏と不安が伴っている。わたしたちは、御子イエスの模範に倣い、聖霊の御助けを求めつつ、自分に生きることを捨てて、父なる神に生きる者でありたいと願う。

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