人のためにある神の掟

12月 5日の説教

梁在哲牧師

 

エレミヤ書36章1~10節    マルコによる福音書7章1~13節

イエスがゲネサレトという土地で群衆からを熱狂的に歓迎されている中、ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、イエスを非難するためにエルサレムから来て、イエスのもとに集まった(マルコ7:1)。彼らはイエスに「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って步まず、汚れた手で食事をするのですか」と非難した。彼らは皆、昔の人の言い伝えを固く守り、念入りに手を洗ってからでないと食事をしなかったからである(2~5節)。彼らは、言葉巧みに弟子たちを非難するふりをしながら、本当の攻撃の的は、イエスであった。しかし、イエスは、彼らが言い伝えを律法以上に大事にし、「神の掟をないがしろにし、神の言葉を無にしている」と反論された(9・13節)。イエスの知っておられる神の掟は、「人のためにあるものである」(マルコ2:27)のに彼らは、神への奉仕を言い訳にし、両親への責任から逃れようと欺き、実に神を崇めていることにもならないからであった。ところが、彼らが非難した実際の問題は、イエスと弟子たちが、「昔の人の言い伝え」に従わず、自由に振舞っていることであった。

我々は主イエス・キリストの十字架の死を通して払われた身代金によって罪と死の奴隷から解き放たれ、あらゆる迷信や偏見と差別から自由の中で神に仕えることが許され、もはや我々を束縛するものはない。宗教改革者ルターは、著書、「キリスト者の自由」において「信仰によって自分を超えて神へとのぼり、神の所から愛によって再び自分のもとへとくだり(ヨハネ1:51)、しかも常に神と神の愛の内にとどまる。これこそ、真の霊的なキリスト者の自由であって心をあらゆる罪と律法と戒めから自由にする」と述べた。父なる神は、御子イエスの十字架の死とご復活を通してご自分の愛と真の自由をお示しになり、律法を完成させられた。わたしたちは、主にある自由と愛の心において主の道を歩みつつ、クリスマスを迎えたいと願う。

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