イエス様の肩書き

1月23日の説教

梁在哲牧師

 

申命記30章11~15節    マルコによる福音書1章21~28節

カファルナウムは、ヨルダン川がガリラヤ湖に流れ込む河口から西へ4キロほど離れた「イエスの町」と呼ばれるほど測り知れない恵みを受け、数多くの奇跡が行われた町であった(マタイ9:1)。しかし、カファルナウムの人々が悔い改めなかったゆえにイエスは、厳しくお叱りになった(ルカ10:15)。イエスは、カファルナウムで福音伝道の第一歩を踏み出され、人々の驚嘆の的となった。安息日に会堂で、律法学者のようにではなく、権威ある者としてお言葉と癒しの御業を通して神の国の隠れた神秘を目に見える形でお示しになられた(サクラメント・ミスティリオン)からである(マルコ1:21~22節)。荒れ野で悪魔がイエスに向かって「もし、あなたが神の子ならば」云々と言ったように、汚れた霊は、会堂でイエスに「あなたは神の聖者だ」と言い、秘められた奥義である「イエスの肩書き」を前もって暴露し、福音伝道を妨害しようとした。しかし、それらはイエスの権威と御力を恐れるあまり、イエスを無力化しようとする悪魔の空しい試みに過ぎなかった。

イエスは、十字架にかけられ、聖霊が人々の上に注がれ、神の国の隠れた神秘が明らかになるまで、ご自分の肩書きが暴かれることを望んでおられなかった。それゆえイエスは、汚れた霊に「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになり、厳しく戒められた(25~26節)。日本基督教団のある大先輩の先生は、「たとえ、死のマグマが破れ目から噴出されても、縫い目のないキリストの衣に包まれてわたしたちは、死のマグマから守られる」と述べた。目に見えない父なる神の恩寵を目に目える形で御子イエスが定められた聖礼典とそれが執り行われる教会を通してわたしたちは、神の恩寵にあずかり、イエス・キリストに結ばれ、キリストの衣を身にまとうことを許されている。それゆえ、私どものプロテスタント教会は、洗礼と聖餐との聖礼典(サクラメント)を執り行い、日本基督教団信仰告白をもって告白している。わたしたちは、その独り子をお与えになられたほど世を愛してくださった父なる神、目に見えない御父の愛を目に目える形で定められた御子なる神、神の国の隠れた神秘を明らかにしてくださる聖霊なる神、三位一体の神を褒め称えたいと願う。

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