天が裂ける出来事

1月 9日の説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記14章15~22節   マルコによる福音書1章9~11節

 マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」から始まり、直ちに主イエスの洗礼の出来事を伝える。主は、罪の赦しを必要とする多くの者たちと共に罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を洗礼者ヨハネから受けられた(マルコ1:9)。その洗礼によって、彼らは主に結び付けられ、それゆえ私たちも洗礼を受けて主に結び付けられるのである。そのように、主イエスの洗礼は二千年の時を超えて、主と私たちを結び付けてくださるのである(ローマ6:4)。後に主は弟子たちに「この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」と、お尋ねになる(10:38)。主が飲まれる杯と受けられる洗礼は、主ご自身の「ご受難と十字架の死」に他ならない。主は十字架上におけるもう一つの洗礼を通してご自分を私たちに結び付けてくださったのである。主が洗礼を受けられる際、目に見えない出来事が起こった。それは「天が裂けて、御霊が鳩のように主イエスの上に降られた」ことと、もう一つの出来事は「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が聞えたことである(1:10~11)。「天が裂ける」ことは、天と私たちの世界とを隔てている人間の罪が天におられる神の側から裂かれることである。それは、如何なる犠牲を払っても罪人たちをご白分のもとに取り戻そうとする神の並々ならぬご決意ではなかろうか。

父なる神は、罪と死の奴隷となっている人間を救われるため御子を救い主としてお遣わしになり、十字架の上で身代金として捧げさせ、三日目に復活させられた。これこそ「天が裂けた」出来事であり、それを予言者イザヤは、 「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」と告げる(イザヤ63:19)。そして、主が十字架の上で息を引き取られ、その贖いの業を完成なさった時に神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂ける出来事が起こった。また、聖霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった御子は、その出来事によって御父の思いを弁える者となられ、十字架の死に至るまで御父の御心に従順に従う道を歩み通された。聖霊が鳩のようにご自分の上に注がれるのをご覧になった主は、「ホサナ」と叫ぶ人々の声と「十字架につけろ」と叫ぶ声をもご自分の身に背負って、十字架への道を歩み出される。それゆえ、天から「これは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が聞えたのである。主イエスの上に降られた聖霊は、ペンテコステの日に弟子たちの上にも降って、彼らは主イエスの思いを弁える者とさせられ、地上に教会が誕生した。私たちのような罪人の救いのために、「天が裂ける」父なる神のご決意に従い、受けられた御子イエスの洗礼を通して働かれる聖霊なる三位一体の神の御恵みを褒め称えたいと願う。

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