からし種のようなもの

2月6日の説教

梁在哲牧師

 

サムエル記下12章1~13節   マルコによる福音書4章30~34節

イエスは、神の国を小さくて弱いからし種のようなものが成長する過程に例えられた(マルコ4:31~32)。ユダヤ人のことわざで、小さくて弱いものは、「からし種のようなもの」、と表されるからである。主ご自身、からし種のような小さい信仰でも神を信頼する時、出来ないことは、何もないと言われた(マタイ17:18~20)。からしは、パレスチナ地方で自生する一年生の植物で4月から6月の間、黄色い花が咲き、3~7メトルに至るまで大きく成長し、その実は、薬味としてまた、油を搾り出して使われた。ところが、集まって来ていた人々は、神の国より、もっと身近な問題、即ち病や困窮、また日頃の肉の糧や不安定な将来への心配などに関心を寄せていただろう。しかし、主は荒れ野でサタンに誘惑を受けられた際、そのような身近で、現実の問題も、結局はこの世において神の国の問題に繋がっていることを示された。主は、飢えて死ぬかも知れないという恐怖に耐え忍ばれ、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」、と断固として神の御心が貫かれる現実を告げ知らせた(マタイ4:4)。私たちは、種を撒くことも、実りを収穫することも出来る。しかし、種の命を造り、育み、成長させるのは、ただ神の御手にある。それゆえ、主は、神の国もそのようなことに似ていて、神の御心は、貫かれつつ、神の国は、一歩ずつ前進して行くことを語られた。

からし種のような小さなものから、空の鳥が巣を作れる程に大きな木が育つように、神の国もその始まりは、気づかれることがない程、小さくても、やがてこの世界を抑えつけるような現実として現れる。それが目に見えないもどかしさのために挫折することもあるかも知れない。しかし、罪人の集いであり、傷を負った状態であるとしても、それでもなお、主イエスの言葉を語ることが教会に許されている。それこそ、神の国の「しるし」である。地上の教会は、からし種のような小さい群れから始まり、主の復活後、聖霊に満たされた弟子たちが教会を造り上げ、道に迷うようなことがあっても、なお、主イエスに倣って、神の国の言葉を語り続けて来た。だからと言って教会が直ちに「神の国」と呼ばれる訳ではない。しかし、教会は少なくとも神の国の「目印」であり続けるだろう。何故なら、使徒信条をもって「我は聖なる公同の教会を信ず」と告白し、神の国を告げ知らせる御言葉が語られ、信じられる場所こそ、教会であるからである。わたしたちは、父なる神が用意してくださった御子イエス・キリストの福音の種を、それがたとえ、からし種のような小さくて弱いものであっても、折を得ても得なくても蒔き続けたい。そして、「御心ならば」、聖霊の豊かな実りを収穫することができるように祈り続けたいと願う。

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