教え始められる主

2月13日の説教

梁在哲牧師

 

箴言2章1~9節       マルコによる福音書4章1~9節

イスラエルの民は、モーセを通してシナイ山で律法を授けられ、ヨルダン川を渡ってカナンに行く前にモアブ平野で改めて律法を授けられた。その際、モーセは、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である」、と命じた(申命記6:4)。それは「シェマ(Shema)」と呼ばれる信仰告白であり、教育方針であった。主イエスも、新しい約束の地に入る新しいイスラエルの民の前によく「聞く」ことを改めて言われた。その時、主イエスの伝道は、夥しい群衆が集まるほど、絶頂に達し、12人の弟子も選ばれた。その一方、イエスを殺そうと企んでいる者もいた。そのような状況において主は、よく「聞く」ことを改めて問われた。よく「聞く」者とは、告げられた神の国の福音、即ち、十字架と復活を通して神の御心が貫かれることを受け入れる者であるからである。それこそ、信仰であることを使徒パウロも「信仰は、キリストの言葉を聞くことによって始まる」、と証した(ローマ10:17)。ところが、神の御心は、人間の不信仰のゆえに不思議にも妨げられ、主ご自身、ナザレの人々の不信仰に非常に驚かれた(マルコ6:5~6)。

主は、「よく、聞きなさい」、と教え始められ(マルコ4:3)、「聞く耳のある者は、聞きなさい」という言葉で締め括られた(9節)。主は、福音を聞く者がどのような反応を示すか、種を撒く例えを言われた。主は、道端や石だらけのまた、茨の中のような良くない土地がある反面、良い土地に落ちた種は、芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ、と例えられた(4~8節)。御言葉は、礼拝は勿論、教会学校、祈祷会、家庭集会、聖書科の授業において様々な形で撒かれて、物語られ、解き明かされる。福音の種を撒く人は、全ての土地が良い土地であり、豊かな実が結ばれると信じて種を撒き続ける。主は、私たちのような拙い者においても御言葉は、実を結ぶと信じて、種を撒き続けてくださるからである。主ご自身、激しい敵意に見舞われ、つまずく者たちに出会われ、教会も様々な迫害と抵抗にさらされる中、撒かれた福音の種は、成長し、実を結び、神の御心は、貫かれる。私たちの福音伝道は、実を結ばず、むしろ抵抗に遭うばかりで、失敗と思われる時もあるかも知れない。しかし、私たちは、目に見える失敗に挫折することなく、主が備えてくださる豊かな収穫の時を待ち望みつつ、福音の種を撒き続けたいと願う。

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