起きて歩きなさい

2月20日の説教

梁在哲牧師

 

列王記下4章32~37節    マルコによる福音書2章1~12節

イエスは、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された(マルコ1:39)。その数日後、再びカファルナウムに来られると、イエスが家におられることが知れ渡り、戸口辺りまですきまもないほど大勢の人が集まった(2:1~2)。そのように、群衆は、家は勿論の事、山や湖に、また荒れ野にいたるまでイエスを追いかけてきた。その群衆の中で四人の男が中風の人をイエスが御言葉を語っておられる家まで運んで来て、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした(3~4節)。イエスは、緊急手段をも辞さないその熱い思いから彼らの信仰をご覧になり、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた(5節)。イエスは、罪と死の奴隷となっている人間を解放してくださるために、この世に来られた。それゆえ、イエスは、地上で人の罪を赦す権威を持っていることを知らせよう、と言われ、中風の人に、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」、と命じられた(10~11節)。主は、罪と死の鎖である病を癒してくださることを通して罪を赦す権威をお示しになった。ところが、エルサレムからやって来て、そこに座っていた律法学者たちは、ナザレのイエスという若造が人の罪を赦すなんてとんでもないことで、神を冒涜している、と心の中であれこれ考えた。しかし、彼らはイエスの権威に圧倒され、真正面から抗議できなくなった(6~7節)。

主は、中風の人を助けようとした四人の男の信仰をご覧になり、一方で御自分の霊の力で律法学者たちの邪な心をも見抜いておられた(8節)。人の子イエスにおいて生ける神ご自身が語り、働いておられるのに、彼らは、律法に閉じ込められた神に囚われていたからである。「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」、という主のご命令は、既に全ての人に及んでいる罪の赦しの確かな証しに他ならない。何故ならば、主は、フィリポ・カイサリア地方に行った時、ペトロの信仰告白を通して、弟子たちの共同体である地上の教会に「罪の赦しの権威」を授けられたからである(マタイ16:13~20)。プロテスタント教会は、洗礼において生涯、一回限りの罪の赦しにあずかり、聖餐においてその赦しを幾度も再び確認され、新たにされる。また、主日礼拝の御言葉の解き明かしを通して「今日も罪を赦していただいた」と、再び確認される。そして「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し賜え」と祈りつつ、起き上がり、ぞれぞれの重荷を降ろし、床を担いで世に遣わされる。私たちは、罪を赦された者として、復活の命によって古き人を脱ぎ捨てて、新しいイエス・キリストの衣を身にまとい、世に遣わされる者であり続けたいと願う。

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