引き渡し始めた者

4月10日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書50章4~7節    マルコによる福音書14章32~42節

主イエスは、ゲッセマネという所で三度に亘って切実に祈りながらご自分に迫って来る十字架に向かって御心を定められた。その祈りは、ご自分の受難の前に用意された最後のものであった。主は三度目の祈りの後、弟子たちに、「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」と、言われた(マタイ14:41~42)。しかし、彼らは、立ち上がったが、主と一緒に行くことは出来なかった。裏切者は、引き渡す意味を持つ、ラテン語「Traditorem」に由来し、ギリシャ語では、「Paradidomai」、英語では「Traitor」と訳されている。ところが、「裏切る」行為は、何故「引き渡す」に由来しているだろうか。イスカリオテのユダは、自分を遥かに超えて上におられ、自分に委ねられていない主を、自分勝手に操り、処分出来る者と思い込み、罪人たちに引き渡したからである。

その意味において弟子たちも、わたしたちも、皆ユダのように、裏切者である。何故なら、わたしたちは、自分に委ねられていないものを、自分の思いのままに引き渡すことが出来ると、思い込む者だからである。しかし、使徒パウロは、自分が伝え、引き渡すことが出来るものは、自分に引き渡され、受けたもの、即ち「主がわたしたちの罪のために死んだこと」だけであると、証した(コリントⅠ15:3)。それゆえ、わたしたちは、自分に託されたものを、それを託してくださった方の御旨に従い、引き渡さねばならない。主のご受難は、引き渡すべきではない方が罪人たちに引き渡された出来事である。しかし、主が復活された後、弟子たちは、聖霊に満たされ、主の福音を告げ知らせ、引き渡し始めた。わたしたちは、聖霊の御助けによって、父なる神の御旨に従いつつ、自らに委ねられた御子イエスの福音を人々に引き渡し始め、宣べ伝え続けたいと願う。

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