身代金として献げられた命

4月 3日の説教

梁在哲牧師

 

哀歌3章1~9節    マルコによる福音書10章32~45節

ゼべダイの子ヨハネとヤコブ兄弟は、主の御心とは異なる夢を見ていた。二人は、先ほどペトロが言い出したことに刺激され(マルコ10:28)、またエリコの町も目前に見えて、栄光に輝くエルサレムだけに心を奪われたからである。彼らは、自分が何を願っているか、分かっていないまま、空しい功名心に捕らわれていた(36~37節)。ところが、他の弟子たちも同じく功名心に溢れて、二人の兄弟だけが良いポストを独り占めするのではないかと、妬みを感じ始め、立腹した。そのように、教会は、いつの時代においても功名心がもたらす紛糾や分裂などの争いに陥ってしまう。そこで主は、弟子たちに世の秩序と教会の秩序は、同じものではなく、むしろ逆のものであり、自分を低くして人に仕える僕のようになりなさいと命じられた。そして、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」、と言われた(42~45節)。主は弟子たちがご自分に倣い、仕える僕になるように願っておられたからである。最近、いわゆる、「身代金型サイバー攻撃」によって企業の全てのファイルが暗号化され、ハッカーたちから身代金を要求される事件が多発している。

しかし、主は数え切れない程、雲霞のような人々を罪から解放するために御自らご自分の命を身代金として払われた。ロシア正教会信者であるプーチン大統領は、最近ロシア軍の兵士たちを激励する際、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と(ヨハネ15:13)、聖書を引用した。しかし、指導者の政治的信念によって聖書が歪曲される現実において、失われる兵士たちの命が果たして大きな愛となるだろうか。主はヤコブとヨハネ兄弟の空しい願いに根気よく答えられた。そのお答えは、わたしたち一人一人にもご自分に倣って仕える僕になるように求めておられるのではなかろうか。わたしたちは、自分自身を正しく知らずに自分が何を願っているか分からなくて、自分が何をしているかをも知らない弱い者である。しかし、主はそのようなわたしたちのためにご自分の命を十字架の上で身代金として支払われ、仕える僕の模範をお示しになられた。弱いわたしたちを助けてくださり、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さる聖霊の御助けを求めつつ、仕える主に倣い、主のお体なる教会と主に仕えることができるように切に願う。

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