神に愛される御子に聞け

3月27日の説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記24章12~18節  マルコによる福音書9章2~10節

「主は、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られ、お姿が彼らの目の前で変わり」、エリヤとモーセと共にご自分の十字架の死について語り合われた(マルコ9:2~4)。すると、雲が現れて彼らを覆い、「これはわたしの愛する子。これに聞け」と、雲の中から声がした(7節)。それは、弟子たちに聞かせた父なる神ご自身のお声であり、証であった。昔、神はイスラエルの民が約束の地、カナンに入る前にモアブの平野でこれからモーセのように立てられる預言者、「彼に聞き従わねばならない」と、命じられた(申命記18:15)。信仰生活とは、どんな情熱があっても聞くことが欠けていたなら無に等しい。ところが、弟子たちは、「聞く」ことに欠けていて殊に、ペトロは、聞いていなかったし、しゃべり過ぎであった。主は、下山するとき、弟子たちに「ご自分が死者の中から復活するまでは、今見たことを誰にも話してはいけない」と、命じられた(9節)。しかし、弟子たちにそのような秘められた奥義を知る術は、なかった。変貌の山の出来事は、主の十字架と復活の出来事を通してのみ、理解できるものだからである。

彼らは、ただその言葉を心に留めて、互いに論じ合うだけであった(10節)。それゆえ、ペトロは後にそれを公に証した(ペトロⅡ1:17~18)。しばしば、変貌の山の出来事の後、下山する姿は、主日礼拝後、世に遣わされることに例えられる。しかし、より大事なことは、お姿が変わるのは、主だけではなく、私たちをもまた、変えられることではなかろうか。その御恵みにあずかる値打ちもなければ、相応しくない私たちを主は、ただ御憐れみによって一緒にいてくださり、変えてくださる。それゆえ、使徒パウロは、心を新たにして自分を変えていただくように願い(ローマ12:2)、主が再び来られる時、聖霊のお働きによって主と同じ姿に造りかえられ、行くことを証した(コリントⅡ3:18)。「これは私の愛する子。これに聞け」と、言われるゆえに、私たちは、父なる神に愛される御子のお声に聞き従わねばならない。そのお声は、私たちを罪と死の奴隷から解き放つ、良い知らせに他ならないからである。聖霊のお働きによって主が共にいてくださり、私たちを変えてくださるように願いつつ、折を得ても、得なくても主の福音を宣べ伝え続ける者でありたいと願う。

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