苦しみを重ね、辱めを受ける主

3月20日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書48章1~8節    マルコによる福音書8章27~33節

主イエスは、ペトロの偉大な信仰告白をお聞きになった後、ご自分の受難について教え始められ、三日の後に復活することになっていると告げられた(マルコ8:31)。すると、ペトロは、エルサレムの王として治めるメシアを期待していたのに十字架で苦しみを受けるなんてとんでもないと思い込み、慌ててイエスを強く責めた(32節)。そこでイエスは、ペトロから荒れ野で受けられたサタンの誘惑を強く感じられ、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、彼を叱って言われた(33節)。「神のこと」は、罪と死の奴隷となっている人間を解放してくださるために、御子を身代金として支払われる父なる神の御救いのご計画に従うことであり、多くの苦しみを重ね、辱めを受けられ、十字架を背負って歩まれた御子イエスに従うことである。

しかし、ペトロは、愛する先生がそのような苦難を避けてエルサレムの王位に就き、自分たちも王様に従う大臣となって一緒にその栄光にあずかろうとする「人間のこと」を思っていた。主は、ご自分の血で民を聖なる者とするために、エルサレム城門の外で苦難に遭われ、コルゴダ丘の上で十字架につけられる大きな辱めを受けられた。イスラエル民と祭司長自分の罪が宿営の外で贖われることは、忌み嫌われ、大きな辱めを受けることに他ならないからである(ヘブライ13:11~12)。ある神学者は、主が受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、主のみもとに赴くことを「心的な出エジプト」であると述べた(ヘブライ13:13)。それゆえ、わたしたちは、自己実現や自己満足のような宿営から出て、主が受けられた苦しみと辱めを担い、主のみもとに赴きたいと切に願う。

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