主の霊を試してはならない

3月13日の説教

梁在哲牧師

 

エレミヤ書2章1~13節    マルコによる福音書3章20~30節

イエスがカファルナウムの家に帰られると、食事をする暇もないほど群衆がまた集まって来た。その慌ただしいある日、母マリアと身の人たちは、イエスのことを聞いて取り押さえに来て、何とか説得しようとした。イエスを非難し、反対する声は、凄い勢いで広がり、ついに「あの男は気が変になっている」と、噂が立つ程となっていたからである(マルコ3:20~21)。特に、エルサレムから下って来た律法学者たちは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた(22節)。「気が変になっている」と、訳されている「エクシステーミ」というギリシア語は、「自分から出てしまっている状態」を表わし、言い換えれば、自分の「アイデンテイテイを失っている」意味である。使徒パウロも総督フェストゥスから「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ」と、非難された(使徒26:23~24)。後に、パウロは、「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです」と証した(コリントⅡ5:13)。ベルゼブルは、「悪霊の王」の意味で、律法学者たちはイエスが悪霊を追い払ったのは、悪霊の頭の力を借りて悪霊の家来たちを追い払うのだと、悪意に満ちて非難した。それは、「あの男は、気が変になっていた」と、巷で言われる噂より、もっと酷い悪口であった。

そこで主イエスは、律法学者たちは永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負うことになると、彼らの罪を定められた(28~29節)。何故なら、彼らは、単なる人が犯すような罪や冒涜ではなく、聖霊を冒涜したからである。主は、洗礼者ヨハネより洗礼を授けられる時、天から聖霊がご自身に降ってくるのをご覧になり、聖霊に促され、荒れ野でサタンの誘惑に遭われた。このように主ご自身において聖霊は、常に働いておられたのに、それを「汚れた霊」や「サタンの頭」としか言えず、聖霊を冒涜する者には、もはや赦しが用意されていないと、主は、毅然として宣言された。主は、ペトロをはじめ、他の弟子たちを召された後、直ちに汚れた霊に取りつかれた男を癒してくださり、悪霊と聖霊の戦いを始め続けられた(マルコ1:34)。それゆえ、主は、家財道具を奪われ、悪霊の住まいとなっている惨めな人間の姿に心を痛め、先ず、その強い悪霊を縛り上げてから、失われていた人間の住まいを取り戻す、と例えられた(27節)。ある大先輩の牧師は、「我々人間は、自分の本来の家を失い、気が変になっているゆえに、主はそのような私たちをご自身の家に家族として迎えてくださるために悪霊と聖霊の戦いを始め、続けておられる」と述べた。イザヤの預言通り主は、悪霊と聖霊の戦いを始められた(イザヤ49:24)。わたしたちは、御子イエスの聖霊の戦いに倣い、父なる神の武具を身に着け(エフェソ6:13)、聖霊の御助けを祈りつつ、信仰の戦いに臨みたいと願う。

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