心も思いも一つにする教会

3月6日の説教

梁在哲牧師

 

申命記15章1~6節       使徒言行録4章32~37節

受難節を迎え、主イエスの苦難と死を覚えつつ、悔い改める時を過ごす一方で、この時期は、礼拝と宣教に伴う諸活動の計画、殊に来年度の予算を定める教会総会が控えている。こういう時こそ、神は私どもの教会に何を求めておられるのか、その御旨を仰ぎつつ、問い続けたい。その意味において初代教会の姿は、神の御旨に気づかせるように、またその問いに答えてくれると思われる。何故なら、初代教会は、「礼拝する教会」、「宣教する教会」であるがゆえに、それ以外のことを目指す事柄のためには、その存在の意味を持たなかったからである。聖霊に満たされた使徒たちは、大いなる力をもって主の十字架と復活を宣べ伝える「宣教する教会」を、またイエスを救い主として信じ、その御子イエスにおいてご自分の秘められた御旨を明らかにされた父なる神を「礼拝する教会」を造り上げたからである。初代教会は、聖霊のお働きによってイエス・キリストを頭とし、イエス・キリストを信じる者は、その肢体とする一つに呼び集められた群れ(エクレシア)であった。

彼らは「一人の人格」として主の十字架の死にあずかり、共に主の復活の新しい命にあずかり、新しい人間として造り上げられた(エフェソ2:14~16)。彼ら一人一人の苦しみは、直ちに教会の苦しみとなり、また教会の苦しみは、直ちに彼ら一人一人の苦しみとなる。それゆえ、彼らは、誰かに強いられ、命じられることなくて、各々自由な心と思いをもって互いの信仰においてその交わり(献金・施し・奉仕を含む)にあずかった。その意味において初代教会は、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、信者の中には一人も貧しい人がいなかった」(使徒4:32a・34a)。そして、初代教会において昔イスラエルの民に与えられた神のご約束が、成し遂げられた。何故なら、神は、イスラエルの民が約束の地、カナンに入る前にモアブの平野でモーセを通して「必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる」と、約束してくださったからである(申命記15:4~6)。新しい年度を迎える私どもの南房教会は、「心も思いも一つにし」、主のお声に聞き従いつつ、「礼拝する教会」、「宣教する教会」を造り上げることに励んで参りたいと願う。

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