聖霊を受けなさい

4月24日の説教

梁在哲牧師

 

民数記13章25~33節    ヨハネによる福音書20章19~31節

週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家のに鍵をかけて身を隠していた。その部屋の中には、エマオから帰って来た二人の弟子たちもいた。復活なさった主イエスは、時間と空間に制約されずに閉じられていた部屋に入り、真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ(ヨハネ20:19~20)。彼らの新しい信仰の歩みは、週の初めの日の夕方、その時から始まった。復活なさった主は、彼ら弟子たちを兄弟と呼ぶことを恥とせず(ヘブライ2:12)、シャロームと言われ、彼らの嘆きと悲しみが喜びに変わったからである(ヨハネ16:20)。主は、重ねて、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われ、彼ら弟子たちは、遣わされた者、使徒と呼ばれるようになる(21節)。使者であり、大祭司でおられる主は(ヘブライ3:1)、弟子たちの喜びと確信を取り戻すために、また、これから遣わされる彼らの働きに備えるため同じ挨拶を繰り返された。そこで主は、「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて 『聖霊を受けなさい』」と言われた(22節)。

父なる神は、土(アダマ )の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられ、人はこうして生きる者となった(創世記2:7)。また、預言者エゼキエルを通してイスラエルは、聖霊によって回復されると、言われた(エゼキエル37:9~10)。そして復活なさった主は、以前、弟子たちに約束してくださった通り(ヨハネ14:16)、聖霊を通して彼らが新しく生まれるようにそのご約束を改めて確かめられた。御父と御子より遣わされた聖霊は、遣わされた使徒を通して、「罪の赦しの福音」を伝え、その福音を受け入れる者は、聖霊を通してそれを神の御言葉として信じる時、罪は赦される。罪の赦しの権威は、ペトロや教皇のような限られた人に授けられた訳ではなく、聖霊を通して呼び集められ、信じる群れ、即ち教会に委ねられているからである(23節)。ユダヤ人を恐れて、家のに鍵をかけて身を隠していた弟子たちのように嘆きと悲しみの中、自分の部屋に閉じ込められている私たちに、復活なさった主は、シャロームと重ねて言われる。それゆえ、私たちは、主日礼拝毎に御言葉の解き明かし、また聖餐と洗礼を通して繰り返して復活の主に出会い、聖霊の御助けによって「今日も罪を赦していただいた」と、改めることを許され、世に遣わされる。私たちは、遣わされる者として主の復活の命に与り、古き人を脱ぎ捨てて、新しい人を身にまとい、「罪の赦しの福音」を宣べ伝えたいと願う。

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