まことの羊飼い

5月1日の説教

梁在哲牧師

 

エゼキエル書34章7~15節   ヨハネによる福音書10章7~18節

主イエスは、生まれつきの盲人の目を開けてくださった後、一緒に居合わせたファリサイ派の人々に、「救われる者が良い羊飼いに導かれ、一つの群れになる光景」を例えられた。人間は、危機が迫って来る時、自分の命を守るために逃げてしまう弱い存在である。しかし、良い羊飼いでおられる主は、羊のためにご自分の命を捨てると、言われた(ヨハネ10:11~13)。主は、人知を遥かに超える「完全な犠牲」を払われる愛を示された。また、御父が自分を知っておられ、自分も御父を知っているのと同じように、良い羊飼いと羊も互いによく知っていると、言われた(14~15節)。使徒パウロは、その「完全な知識」は、理屈によるものではなく、聖霊を通してのみ与えられるものだと、証した(コリントⅠ12:3)。そして主は、その囲いに入っていない他の羊も良い羊飼いの声を聞き分け、群れから独りぼっちになることなく、導かれ、一つの群れになると、言われた(16節)。それは、歴史や民族や言葉といった囲いを超えた世界的な教会であり、使徒信条において「聖なる公同の教会」と唱えられる「普遍的(カトリック)な教会」である。

ヘブライ人への手紙の著者も、永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエス・キリストを頭とする「聖なる公同の教会」のために祈った(ヘブライ13:20~21)。主は、聖なる公同の教会を建てるために、この世に来られた。そして主は、良い羊飼いとして羊の群れに永遠の命を与えるために死ぬべき群れの代わりに死なれ、よみがえられた。父なる神は、そのような御子の犠牲を愛してくださる(17節)。その犠牲は、イスカリオテ・ユダの裏切や祭司長の陰謀、またポンテオ・ピラトの宣告によるものではなく、御父から受けた掟によるものである。それゆえ、御子は、「私は命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」と、言われた(18節)。永遠の契約の血による「まことの羊飼い」、主イエスを死人のうちよりよみがえらせてくださった父なる神が、御子イエスによってわたしたちに全ての良いものを備えてくださり、聖霊を通して御旨に喜ばれる者とし、御栄えを現わすことができるように切に祈る。

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