新しいキリストの掟

5月8日の説教

梁在哲牧師

 

レビ記19章9~18節    ヨハネによる福音書13章31~35節

主イエスは、最後の晩餐の前に、誰が大きくて偉い者なのか、互いに言い争っていた弟子たちの足を洗ってくださり、その言い争いを静められた。その後、晩餐の最中、イスカリオテのユダに「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われ、彼はすぐ外に出て行った(ヨハネ13:27)。ユダは、自分自身のことだけを追い求めて来た。しかし、主は、これから、十字架の上で御自ら犠牲となられる。ユダが外に出た後、主は残された弟子たちにご自分の十字架の死を通して御父と共に栄光をお受けになると、言われた(31~33節)。それゆえ、使徒パウロは、「御父は、御子を高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになられた」と、証した(フィリピ2:8~9)。そして、主は悲しいお別れの言葉を告げられた後、ご自身再び世に来られるまで弟子たちに守るべき「新しい愛の掟」を命じられた(33~34節)。それゆえ、私どもは、聖餐式の度に、「互いに愛し合いながら主の再び来りたもう日を待ち望みたい」と唱え続ける。主ご自身、弟子たちを愛したように彼らも互いに愛し合うように厳しく命じられた。主は彼らが愛と従順をもって一つにまとめられ、清められるように願っておられた。しかし彼らは、ユダのようにすぐ主を裏切り、見捨てて逃げてしまった。

ボタンさえ押せば、数十、数百人の命が一瞬で落とされるこの時代に、「互いに愛し合いなさい」と、命じられても聖霊の御助けによらなければ、それは、空しい響きに過ぎない。旧約の古い掟は、自分自身を愛することを妨げない(レビ19:18)。しかし「新しいキリストの愛の掟」は、十字架の上で犠牲となられる愛である。仏教の慈悲は、悟りに至らなかった人々を憐れむ、上からの目線の愛である。ゆえに、キリストのように自己を犠牲する愛は、見当たらない。また、主は、互いに愛し合う愛の光りが世を照らす真の教会の姿を言われた(35節)。それは、目に見える組織や人数によるものではなく、ただ、互いに愛し合うキリストの愛によるものである。「新しいキリストの愛の掟」は、キリストの御手によって定められた。それは、弟子たちの足を洗ってくださった御手、十字架の上で釘を刺され、血を流された御手、パンと杯を取って弟子たちにしかも、ユダにも与えられた御手、そして復活なさって、弟子たちにシャロームと言われた後、手とわき腹をお見せになった御手によって定められたものである。わたしたちの救いのために御子をこの世にお遣わしになった父なる神を褒め称え、聖霊の御助けを求めつつ、互いに愛し合いながら主が再び来られる日を待ち望みたいと願う。

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