奉仕する共同体

9月25日の説教

梁在哲牧師

 

申命記15章1~11節   コリントの信徒への手紙二19章6~15節

使徒パウロは、エルサレム教会と異邦人教会が一つに結ばれるように尽力し、コリント教会にも献金をささげ、神に仕える奉仕の業に加わるように強く勧めた。パウロにとって献金は、不承不承ではなく、喜んで惜しまず神に捧げる時、祝福は満ち溢れ、教会の益となり、強制ではなく、自分で心に決めて捧げる時、神に仕える奉仕の業に加わるものであった(コリントⅡ19:6~10)。献金こそ、神のみに信頼する信仰告白であり、証しとなるからである。また、パウロは、コリント教会から届けられた尊い献金の前にエルサレム教会は、神に対して感謝の念を引き出され、御名を褒め称え、コリント教会の人々を慕い、コリント教会のために祈るようになる、と証した(11~14節)。それは、肉の物を通して助けるコリント教会に送るエルサレム教会の霊的なお答えに他ならない。パウロは、喜びをもって惜しまずに捧げられた献金がエルサレム教会に伝えられ、その献金を通して異邦人教会とエルサレム教会が一つに結ばれることに言葉では言い尽くせない感謝を神に捧げた(15節)。神に感謝しながら献金を捧げ、奉仕の業に加わる者に倣い、新しい奉仕者と献身者が生まれ、福音があまねく宣べ伝えられるからである。

ところが、エルサレム教会は、コリント教会から献金を受ける前からコリント教会に主の福音を伝え、コリント教会は、既に霊的なものにあずかった。それゆえ、コリント教会は、肉のものでエルサレム教会を助け、施す義務があったのである(ローマ15:25~28)。旧約聖書は、貧しい者のため惜しまず、施すその愛と信仰の土台を示している。以前エジプトの国で寄留者であったイスラエルの民は、主なる神に愛され、エジプトから導き出されたゆえに、その出来事と信仰に基づき、7年目毎に貧しい人を愛し、施す信仰に導かれて来た(申命記15:1~11)。そして、わたしたちは、その独り子を惜しまずにお与えになられた父なる神に愛され、御子イエス・キリストを救い主として信じる時こそ、奉仕の業に加わるようになる。カルト集団のように誰にでも闇雲に捧げられるようなものではなく、御自ら十字架の犠牲の道へ進められた主イエス・キリストに捧げられる愛と信仰によってのみ、「奉仕する共同体」として立つことを許される。わたしたちは父なる神の愛に感謝と祈りをもって御名を褒め称えつつ、折を得ても得なくても御子イエス・キリストの福音をあまねく宣べ伝えたいと願う。

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