キリストに贖われた共同体

10月2日の説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記12章21~27節    ヘブライ人への手紙9章23~28節

旧約の大祭司長は、毎年一度、聖所に入り、主なる神に生贄の血を捧げ、民と自分の罪は贖われた。贖いという言葉は、もともと商人たちの間でお金や身代金を払って奴隷や人質を買い取り、解き放つ際、使われるものであった。しかし、永遠なる大祭司長でおられるキリストは、ただ一度、人間の手で造られた模型のような聖所ではなく、天の聖所でご自身を生贄としてお献げ、血潮を払って罪と死の奴隷となっていたわたしたちを解き放ってくださった。キリストは、御自ら出エジプト以来、過越祭の度に屠られて来た小羊となられ(出エジプト12:21~27)、ご自身の血を注ぎ出される一度だけの完全な犠牲を払われ、罪を取り去るために世に現れてくださった(ヘブライ9:23~24)。それは、旧約の大祭司長のように繰り返すことのない、ただ一度、御自身を生贄として献げて罪と死を取り去る完全な贖いである(25~26節)。キリストの御救いの業は、十字架の上で既に始まり、再び来られる時、死んだ者も生きている者も皆、主の御前に立たされ、裁きを受ける。キリストは、不信仰者を滅ぼし、主が再び来られるのを待ち望んでいる信じる者をご自分の前に呼び集められ、永遠の救いの御業は、完成される(27~28節)。

キリスト御自ら、わたしたちのために小羊として犠牲となられた、その贖いによってわたしたちは、罪と死の奴隷から解き放たれ、生きる者となった。それゆえ、わたしたちは、聖餐式毎に、十字架の上でご自分を生贄としてお捧げになられた「キリストの贖いの恵み」を思い起こし、感謝の祈りを捧げ続ける。これこそ、聖餐の恵みであり、ご約束である。キリストの血は、イスラエルを超えて多くの人々のため流され、新しい契約を結んでくださった。わたしたちは、その契約を先立って知らされ、生かされている「キリストに贖われた共同体」である。それゆえ、わたしたちには、まだその新しい契約を知らない人々に、「あなた方のためにも、キリストは、犠牲の贖いの血を流された」と、告げ知らせて行く使命が与えられている。その意味において聖餐は、教会だけの内向きのものではなく、むしろ、外に向かって福音を宣べ伝えて行く、大きな広がりを見せている。今も主イエスは、聖餐の度にご自身の血による贖いの恵みをわたしたちの内に確かめてくださる。それゆえ、わたしたちは、「キリストに贖われた共同体」としてまだ、「キリストの贖いの恵み」を知らない人々に折を得ても得なくても主イエス・キリストの福音を宣べ伝え続けたいと願う。

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