苦難の共同体

10月9日の説教

梁在哲牧師

 

創世記32章23~33節    コロサイの信徒への手紙1章21~29節

もともとコロサイ教会は、使徒パウロの弟子となったエパフラスによって建てられた異邦人の教会で、後にフィレモンも一緒に重要な役割を果たした。ところが、パウロがローマの牢屋に捕らわれて間もなく、エパフラスがローマにやって来て、コロサイ教会に偽りの教師が入り込んで勝手に異端の説を教えていることを報告した。そこでパウロは、直ちにこの手紙を通して以前、神から離れ、心の中で神に敵対し、罪の奴隷となり、死の人質となっていた彼らの正体を明らかにした。しかし、神は、そのような彼らのためにキリストの十字架の血を身代金として払われ、買い取られ、解き放ち、和解してくださった、と伝えた(コロサイ1:21)。キリストは、ご自身の十字架の血によって贖われ、神と和解させていただいた彼らが神の御前に聖なる者、傷のない者、咎めるところのない者となるように願っておられたからである(22節)。そして彼らが異端の教えに揺らぐことのない者となるために「福音の希望から離れず、福音に踏みとどまりなさい」、と強く戒めた(23節)。また、パウロは自分の苦しみの足りなさを覚え、それを満たし、完成するために苦しむことを喜びとし、キリストのお体なる教会を造り上げるために自分は、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしている、と大胆に告白した(24節)。

パウロは自由を奪われ、苦しい牢屋の中で自分の内に力強く働くキリストの御力と人間の力が一つとなって教会の力となることに気付き、全てをキリストに委ね、キリストのお体なる教会のために闘った(29節)。苦しみを苦しみのままに終わらせることなく、苦しみを超える神の御導きを信じて委ねたパウロの如く、ヤコブは、神と共に戦う「信仰の戦い」を信じ、苦しみを超える神の御導きに全てを委ねるようになった。ヤボク川の渡しで腿の関節が外れるほど、神と格闘したヤコブは、激しい信仰の戦いと苦しみの体験を通してその信仰の戦いを自分一人だけでなく、神に支えられながら神と共に戦うようになり、新たにイスラエルと呼ばれ、その場所をベヌエル(神の顔)、と名付けた(創世記32:23~31)。御子イエスは、人々が自分につまずき、自分を見捨てることをご存じながら、ゲッセマネで十字架の苦しみと恐れを父なる神の御心に全てをお委ねになられ、祈られた。キリストは、小羊のようにわたしたちの罪を背負い、その苦しみと恐れを担われた。その十字架の血によってわたしたちは、「キリストに贖われた共同体」となり、聖餐式の度にキリストの苦しみにあずかり、「苦難の共同体」としてキリストと共に歩み抜くことを許される。わたしたちは、「苦難の共同体」として聖霊の御助けによって父なる神の御力と私たちの力が一つとなり、御子イエス・キリストのお体なる教会の力となるように切に願う。

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