救いの約束

11月13日の説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記3章1~15節    ヘブライ人への手紙8章1~13節

ヘブライ人という呼び名は、アブラハムがカルデアのウルからユフラテス川を渡ってカナン地方に入った出来事を由来にし、「川を渡って来た者」の意味である。ヘブライ人への手紙の著者は、当時ローマに住んでいたユダヤ人キリスト者2世宛にこの手紙を通してまことの大祭司なるキリストによる新しい契約の恵みを伝えた。彼らは、親の世代のように迫害や苦難を受けながらも自分たちの信仰に確かに立ち続けることが出来ず、不安で定まらない信仰に迷っていたからである。まことの大祭司でおられるキリストは、ただ一度、ご自分を十字架の上でいけにえとしてお捧げになられた(ヘブライ8:1~3)。そして、キリストは、御自ら十字架の犠牲を通して贖いの供え物となられて、新しい契約を結ばれ、その新しい契約に基づいて父なる神とわたしたちの間の仲介者となられた(6節)。それゆえ、キリストは最後の晩餐の時、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」、と言われたのである(コリントⅠ11:25)。 

主なる神は、イスラエル民の苦しみを共に苦しまれ、彼らをエジプトの国から救い出すために指導者モーセを選び出し、お遣わしになるしるしとして、「わたしは、必ず、あなたと共にいる」と、約束してくださった。そして、モーセに、「わたしはある」というご自身の名を示された(出エジプト3:7~14)。しかし、まことの大祭司なるキリストの務めは、モーセに授けられた古い契約によるものではなく、新しい契約によるものである。その務めは、預言者エレミヤの預言を通して成就され、キリストによって与えられた新しい契約に基づいたものである(エレミヤ31:33~34)。神は、エレミヤを通してイスラエルを責められ、その時代は、最初の契約は、古びてしまい、新しい契約を待ち望んでいた時であった。イスラエルの民は最初の契約において失敗をし、バビロンに連れ出され、捕囚となるからであった(ヘブライ8:8・13)。わたしたちは、たとえ、不安で定まらない信仰に迷う時にも聖霊の御助けによってまことの大祭司なる御子イエス・キリストを仰ぎつつ、キリストの「新しい契約」にあずかれる恵みに生きる者としてこの地上の旅路を歩み続けたいと願う。

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