神殿で奉献される幼子イエス

1月 1日の説教

梁在哲牧師

 

サムエル記上1章20~28節  ルカによる福音書2章21~40節

幼子イエスの両親は、律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、その子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った(ルカ2:22)。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいて、彼は主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けた。シメオンが霊に導かれて神殿の境に入って来たとき、両親は幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た(25~27節)。主なる神の救いを自分の目で見たシメオンは、幼子を腕に抱き、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせて下さいます」と神をたたえた。そして万民のために整えてくださった主なる神の救いは、異邦人を照らす啓示の光であり、イスラエルの誉れであると、幼子イエスを声高らかに褒め称えた(29~32節)。

最後の士師サムエルの母ハンナは、不妊の女であったが、主なる神に願って男の子を授けられた。しかし、ハンナは、幼子サムエルを生涯主なる神に委ねられた者として献げた(サムエル上1:28)。ハンナは主なる神に自分の全てのことを委ねつつ祈り、真の神殿奉献のことを身をもって証した。使徒パウロも「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝である」、と証した(ローマ12:1)。それゆえ、わたしたちは、聖餐式の度に「今、聖霊の助けにより、感謝をもってこの体を生きた聖なる供え物として御前にささげます」と感謝の祈りをささげ続ける。わたしたちの信仰の歩みは、全てが順風満帆とは、限らない。詩編の記者は、嘆きの谷のような苦難に出遭ってもそれに負けず、心に広い道を開いてくださる主なる神に勇気づけられ、不信仰への誘惑を乗り超えるように歌っている(詩編84:6~7)。新しい一年、聖霊の助けによって勇気づけられ、父なる神が御子イエスを通して備えてくださった一筋の広い道をシメオンのように御名を褒め称えつつ、歩み続けたいと、祈り願う。

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