神の民に加えられる恵み

4月2日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書56章1~8節      ルカによる福音書23章32~49節

預言者イザヤは、主なる神の会衆に数えられなかった宦官や異邦人などをも招かれ、神の民に加えられる恵みを告げ知らせた。(イザヤ56:8)。苦しい十字架の上で、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、切実に願う犯罪人の一人に、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緖に楽園にいる」と、言われた(ルカ23:42~43)。イザヤを通して告げられた主なる神の約束と恵みは、十字架の上で御子イエスによって成し遂げられた。へブライ人への手紙の記者は、御子イエス・キリストの十字架の犠牲によって誰もが父なる神の民として数えられ、聖なる者に加えられる大いなる恵みを証している(ヘブライ10:10~12)。

十字架の上で主イエスは、大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれた(マタイ27:46)。それは、父なる神に余すことなく打ち明けた御子イエスの嘆きであった。しかし、父なる神は、御子イエスを死人のうちよりよみがえらせてくださり、その嘆きを喜びの讃美へと変えてくださった。嘆きの預言者とも呼ばれる、涙の預言者エレミヤは、預言者として誠実な働きのゆえに、人々から受ける迫害の中で主なる神の召しに生きることを辞められなくなり、嘆いた。しかし、主なる神への嘆きは、讃美へと変えられた(エレミヤ20:7~13)。

詩編の記者ダビデも、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と嘆いた。しかし、彼は主なる神に堅い信頼を寄せて褒め称え、その嘆きは、讃美へと変えられる(詩編22:2~6)。御子イエスは、わたしたちの罪のためにご自分をいけにえとして十字架に献げられ、わたしたちの嘆きが父なる神を褒め称える賛美へと変えられるように、誰をも分け隔てることなくお招き、救ってくださった。それゆえ、わたしたちは、父なる神の民に加えられ、数えられる大いなる恵みにあずかっている。新しい年度のはじめにあたり、聖霊の御助けによってわたしたちの嘆きが讃美へと変えられるように祈り願う。

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