主の復活へとあやかっていく者

4月9日イースターの説教

梁在哲牧師

 

創世記9章8~13節    ルカによる福音書24章1~12節

イスラエルの民は、「水を潜り抜ける」出来事を通して死を潜り抜け続けて来た。彼らはエジプトの国からモーセに導かれてあしの海を渡り、またノアの大洪水の出来事を通して新しい命と約束へ移されたからである(創世記7:6~7・9:8~13)。詩編の記者も主なる神の救いの御業と死から新しい命へ移される恵みを褒め称えている(詩編30:4)。

空っぽのお墓の前で恐れて地に顔を伏せていた婦人たちに天使の御使いは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と告げた(ルカ24:5~6)。それは十字架の死を潜りぬけられ、よみがえられた主イエスのご復活の喜びのお知らせであり、新しい命へのお告げであった。

使徒パウロは、洗礼によってキリストと共に葬られ、その死の姿にあやかるなれば、死を潜り抜け、キリストの復活の姿にもあやかれ、新しい命に生きる恵みを、そして主が再び来られるその日にわたしたちは、今とは異なる朽ちない者に変えられることを証した((ローマ6:4~5・コリントⅠ15:51~52)。

それゆえ、死を潜り抜ける十字架がなければ、復活は空しい神話のようなものとなり、新しい命へ移される復活がなければ、十字架の死は神の厳しい裁きに終ってしまう。主のご受難を覚え、悔い改めの祈りを続け、レントの時を潜り抜けたわたしたちは、この喜びのイースターの朝、改めて洗礼の恵みを覚え、キリストの死の姿にあやかりつつ、キリストの復活の姿にあやかって行きたいと祈り願う。

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