主の愛のゆえに選ばれた民

5月7日説教

梁在哲牧師

 

申命記7章6~11節     ヨハネによる福音書15章12~17節

過越祭の前の夕食の時、主イエスは、弟子たちの足を洗ってくださった。その後、裏切り者イスカリオテのユダは、自分のこれからしようとしていることを果たすためにすぐ出て行った。そこで主は、弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と、新しい掟を言われた(ヨハネ15:12)。それは、御自ら、友のためにご自分の命を十字架で捨てられる主イエスの愛の掟であった(13節)。主なる神は、モーセに友と語るように顔と顔を合わせて語られ(出エジプト33:11)、主イエスご自身、徴税人や罪人、またラザロと弟子たちにも友よ、と語られた。

「律法の民」とも呼ばれたイスラエルの民は、シナイ山でモーセを通して主なる神の律法を授けられた以降、度重なる反抗、殊にカデシュ・バルネアでの反逆のゆえに、40年間シナイ半島を彷徨い続けた(民数記14:29~30)。120歳となったモーセは、ヨルダン川の東側にあるモアブ平野で出エジプトどころか、葦の海の奇跡も知らない若い世代に再び律法を説き明かした(申命記1:5)。詩編の記者は、モーセが若者たちに説き明かしたように、若者が主なる神の御言葉通りに清い道を歩み、迷い出ることのないように願い、祈っている(詩編119:9~10)。

主なる神は、イスラエルの民をご自分の宝の民としてお選びになり、律法を授けられ、ご自分の愛を貫いておられた(申命記7:6~8)。主なる神の愛のゆえに選ばれたイスラエルの民がエジプトの王、ファラオが支配する「奴隷の家」から救い出されたように使徒プロは、父なる神が御子イエスを通して世を支配する「諸霊の奴隷」からわたしたちを解き放ってくださり、「神の子」にされる恵みを証した(ガラテヤ4:3~7)。父なる神が「御子イエスの霊」をわたしたちの心に送ってくださり、父なる神を「アッバ父よ」と呼ぶことが許され、相続人として立てられるからである。

それゆえ、わたしたちは、毎年この時期に弟子たちの上に聖霊が注がれ、主のお体なる教会が産声をあげ、地上に立てられた大いなる恵み、そして一人一人の心に御子イエス・キリストの霊が注がれ、神の子にされる喜びをも覚え続けている。父なる神は、御子イエス・キリストを通してご自分の御もとに導く一筋の道を開いてくださった。わたしたちは、聖霊の御助けによって、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しなさい」と、言われる主イエスの御言葉通りに、迷い出ることなく、一筋の道を歩みつつ、清い心をもってペンテコステを迎えたいと願う。

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