神のみもとに導くもの

4月30日説教

梁在哲牧師

 

 

出エジプト記16章4~16節  ヨハネによる福音書6章34~40節

五つのパンと二匹の魚の奇跡の出来事を目の当たりにした群衆は、その場を離れて湖の向こうの岸辺に退かれた主イエスを追いかけて来た。しかし、彼ら最大の関心事は、専ら肉の糧で満腹することにあるがゆえに、イエスは御自ら、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と、証された(ヨハネ6:35)。使徒パウロも、「しかし、わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」と、厳しく戒めた(コリントⅠ8:8)。

イスラエルの民はモーセに導かれ、エジプトの国から解放され、葦の海を渡り、荒れ野の旅路を続けて二ヶ月も経たないうちにモーセとアロンに不平をあらわにした。そこで主なる神は、彼らにマナとうずらを降らせてくださった。しかし、食べ物を与えられ、満腹になってもその満足は、一時のことに過ぎなかった(出エジプト16:1~3)。ダビデ王の時代に礼拝音楽を築き上げたレビ族のアサフの子孫は、主なる神に対して心は定まらず、その契約に忠実ではなかったイスラエルの民の弱くて醜い姿を歌い続けた(詩編78:23~37)。

しかし、それにもかかわらず、「主なる神は、憐れみ深く、罪を贖われ、彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め、憤りを尽くされることはなかった」(詩編78:38)。父なる神は、心は定まらず、約束に忠実ではないわたしたちを忍耐強く憐れんでくださり、御子イエス・キリストを通してご自分のみもとに導く一筋の道を開いてくださった。わたしたちは、聖霊の御助けによって「父なる神のみもとに導くもの」は、決して肉の食物ではなく、永遠の命のパンとしてわたしたちを満たしてくださる御子イエス・キリストでおられることを知り、悟るように祈り、願う。

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