主の復活の力に支えられ、歩む者

4月23日説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書51章1 ~6節    ルカによる福音書24章36~43節

ソロモン王の死後、イスラエルは分裂して北はイスラエル王国、南はユダ王国としてそれぞれの道を歩み始めた。その後、イスラエルの道は、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ローマ帝国によって次々と翻弄される歴史に綴られた。紀元前722年、北イスラエルは、アッシリアによって滅ぼされ、紀元前586年、南ユダ王国の都、エルサレムとソロモンの神殿は、新バビロニアによって徹底的に破壊された。しかし、預言者イザヤは、人知を遥かに超える主なる神の御力がその廃虚と荒れ地を再びご自分のエデンの園とされる希望を預言した(イザヤ51:3)。 

父なる神の御力は、御子イエス・キリストを三日目に死人の内よりよみがえらせてくださった。しかし、復活なさった主が弟子たちの真ん中に立ち、平和のご挨拶を言われたにも拘わらず、彼らは恐れおののき、うろたえて心に疑いを起していた。そこで主は、ご自分の手や足を触ってよく見なさいと、言われた。ところが、彼は喜びのあまり、まだ信じられず、不思議がっていた。ついに主は、焼いた魚一切れを取って、彼らの前で食べられた(ルカ24:36~43)。今も聖書の御言葉は、主の復活を信じられず、疑いを起している者に語りかけているのではなかろうか。

使徒パウロは、主が再び来られる時、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは、主の十字架の死の姿から主の復活の姿にあやかるように導かれ、今とは異なる状態に変えられると、証した。そして、主の復活の力のゆえに、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか死よ、お前のとげはどこにあるのか」と、死に向かって勝利の宣言をした(コリントⅠ15:51~55)。詩編の記者は、一時の眠りにおいて主なる神の慰めと望みを求め、褒め称えた(詩編4:9)。しかし、わたしたちは、主が再び来られる時、一時だけ注がれるものではなく、主の復活の力によって死に勝利を治める確かな慰めと望みを抱くことを許される。

使徒パウロは、信じる者全てに救いをもたらす神の力のゆえに、福音を恥としないし(ローマ:1:16)、「神の力」である福音、すなわち、キリストの十字架と復活の御言葉を宣べ伝えていると、証した(コリントⅠ1:23~25)。それゆえ、わたしたちは聖餐式の度に、「キリストの復活の力を知り、その苦しみにあずかり、折を得ても得なくても、御言葉を宣べ伝えることが出来るように」と、感謝の祈りを捧げ続ける。わたしたちは、主の復活の力に支えられ、恐れや疑いのような古着を脱ぎ捨てて、力強くこの地上の旅路を歩み続けいと祈り願う。

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