幕屋を住みかとして歩まれる神

6月11日説教

梁在哲牧師

 

サムエル記下7章4~16節     使徒言行録2章37~47節

聖霊に満たされたペトロは、立ち上がって「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシア となさったのです」と、大胆に主イエスのことを証した。「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った(使徒2:36~37)。それは、聖霊のお働きによって自分たちの罪が明らかにされ、悲しむ心が芽生えた人々の悔い改める言葉であり、この地上に教会が生まれる産声ではなかろうか。悔い改めがなければ、真の教会は生まれないからである。

すると、ペトロは、救われる道に踏み入れるために先ず、「悔い改めて、めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受けて罪を赦していただき、賜物として聖霊を受けるように」と、勧めた(38節)。悔い改めて洗礼を受け、罪を赦していただくことは、聖霊によって強く結ばれるからである。初代教会の原風景は、喜びと真心をもって祈り、神を賛美する礼拝を捧げ、一緖に食事をし、共に生きる姿であった。それゆえ、民衆全体から好意を寄せられ、主は救われる人々を日々仲間に加え、一つにされた(43~47節)。真の礼拝は、自己満足で終わることなく、人々の心を動かし、人々から称賛されるからである。

主なる神は、預言者ナタンを通して神殿建築を望んでいたダビデに、「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか」と、問い返された後、「わたしは イスラエルの子らをエジプトから 導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして步んで来た」と、言われた(サムエル下7:5~6)。人間が造った建造物におさめられる訳ではない主なる神は、出エジプト以来、幕屋を住みかとして步んで来られ、常に共におられたその恵みのゆえに、ダビデの願いを拒まれた。

詩編の記者は、祭りの際、全イスラエルの12部族や巡礼者たちがエルサレムに集まって来て一緒になるその喜びを、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという惠み、なんという喜び」と、褒め称えた(詩編133:1)。私どもの教会もその喜びを褒め称えたいと、願い続けて来た。しかし、地上の教会は、罪人たちの集いであるがゆえに、対立、心のない言葉、葛藤、誤解、分裂、妬み、自分が自分を売りまくり、混乱が起きる現実に直面している。それにも拘わらず、私たちは、諦めず、主イエスを仰ぎつつ、初代教会の姿に倣いたい。そして、「幕屋を住みかとして共に歩まれる」父なる神の愛に感謝し、罪の赦しの権限を代々の教会に授けてくださった御子イエスの恵みに励まされ、聖霊の御助けによって心を一つにして祈りつつ、御名によって集うことに励みたいと願う。

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