聖霊に満たされ、押し出された者

6月18日説教

梁在哲牧師

 

申命記8章11~20節     使徒言行録4章5~12節

ペトロとヨハネは、神殿の境内にある美しい門という所で足の不自由な人に出会い、ペトロは、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、步きなさい」と言った(使徒3:6)。その後、大祭司や議員、長老、律法学者たちは、使徒たちを真ん中に立たせて「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した(4:6~8)。そのとき、聖霊に満たされ、押し出されたペトロは、怯むことなく、「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるもので、ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と宣言した(4:10~12)。主イエスは、これからペトロは、「聖霊に満たされ、押し出された者」となるがゆえに、「しかし、年をとると両手を伸ばして他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる」と言われた(ヨハネ21:18)。

死にかけていた12歳の一人娘を癒してくださるように切実に願った会堂長ヤイロとまた、12年も婦人病に苦しまれ、後ろからイエスの服の房に触れた女性は、全てのことを「救われるべき名、ナザレの人、イエス・キリストの御名」に依り頼り、望みを託していた(ルカ8:41~44)。旧約聖書は、「救われるべきその名、ナザレの人、イエス・キリストの御名」に依り頼る上で捨てねばならない「二つのおごり」、即ち、「心のおごりと贅沢の奢り」のことを暴いている。モーセは、約束の地、カナンに入る前に、ヨルダン川の向こうモアブの平野でイスラエルの民に、「高慢になって心おごり、主なる神を忘れないように」と戒めた(申命記8:14)。ダビデは、自分と祭司長アヒメレクを告発してサウロ王から莫大な賞金をもらうようになったエドム人ドエグに「見よ、この男は神を力と頼まず、自分の莫大な富に依り頼み、自分を滅ぼすものを力と頼んでいた」と諭した(詩編52:9)。わたしたちは、「聖霊に満たされ、押し出された者」として自分の力や富の贅沢に依り頼ることなく、心の中に潜んでいる「二つのおごり」を捨てて、救われるべきその名、主イエス・キリストの御名に依り頼り、望みを託しつつ、地上の旅路を歩み続けたいと祈り、願う。

前回 目次へ 次回