共に執り成し、共に主を求める群れ

6月25日説教

梁在哲牧師

 

エゼキエル書34章1~6節    使徒言行録8章26~38節  

ステファノの殉教後、使徒たちは、エルサレムから散らされ、福音を告げ知らせながら各地を巡り歩いた。その中でフィリポは、サマリアの人々にキリストを宣べ伝え、病気を癒し、悪霊を追い払い、町の人々は大変喜んだ。その後、フィリポは、主の天使に導かれ、ガザへ下る道に行く途中で出会ったエチオピアの宦官から聖書の手引きを頼まれた。そこでフィリポは、聖書を説き明かして、福音を告げ知らせ、彼に洗礼を授けた(使徒8:26~38)。今日、教会は常に人々より、聖書の手引きを求められている。それゆえ、教会は、主日礼拝と祈祷会、また家庭集会や求道者会を通してそれらを求める人々のために共に執り成し、共に主を求めなければならない。御子イエスは、ご自分の十字架の犠牲によって父なる神と人間、またユダヤ人と異邦人との間に立ちはだかる敵意という隔ての壁を取り壊し、滅ぼされ、「まことの執り成し主」となられたからである(エフェソ2:14~18)。それゆえ、わたしたちの執り成しの祈りは、主イエスの執り成しの祈りに限りなく収斂されねばならない。私どもの教会は、その執り成しの祈りを週報に掲載し、「共に執り成し、共に主を求める」信仰を受け継いでいるのである。

紀元前6世紀の末、バビロニアはユダ王国を支配し、人々を連れ出した。その時、預言者エレミヤは、それは主なる神の裁きであるがゆえに、バビロニアに降伏するように警告したが、ユダの王は最後までバビロニアに対抗し続けた。一方、同じ時期、既にバビロニア捕囚として連れ出された預言者エゼキエルは、エレミヤと同じような警告をしたが、殆どの人々は、預言者の警告を無視した。その後、ユダ王国は完全に滅ぼされ、ソロモン神殿も破壊され、残された人々も捕虜として連れ出された。そのようにエゼキエルは、旧約の歴史の中で最も辛くて暗い時期に預言し続けた。エゼキエルは、厳しい裁きの中でも、主なる神は、一人一人の心の中でお働きになり、殊に、王、大臣、長老、律法学者、祭司長など、民を治め、導く役割を担う牧者たちを悔い改めさせられ、彼らが真心をもって主なる神に答える時が必ず訪れると預言した(エゼキエル34:2)。その意味においてエゼキエルの預言は、国を治め、導く牧者として立てられたエチオピアの宦官を通して成就された。

教会の牧者として立てられている教職、長老、役員は、礼拝、伝道、牧会、教育、交わり、訓練、奉仕など、いにしえの使徒たちが教えたような教会の働きにおいて重い責任を負うものであるがゆえに、それらの務めは、尊重されなければならない。詩編の記者は、善い羊飼いでおられる主に導かれ、養われる恵みを褒め称えている(詩編23:1)。わたしたちは、見失った羊のような、また無くした銀貨のような者を探し求めておられる「父なる神の愛」を、また、一匹ずつ、羊のその名をお呼びになり、その群れをご自分の囲いに呼び集めてくださり、養ってくださる「善い羊飼い」でおられる「御子なる神の恵み」を、そして、言葉には言い表せないうめきをもって執り成してくださる「聖霊なる神の交わり」を褒め称えたい。そして、主日礼拝毎にその三位一体の神の恵みに感謝し、確かめつつ、分かち合いたい。信仰の仲間たちのために、また未だに主イエス・キリストを知らない者のために捧げられるわたしたちの執り成しの祈りは、「まことの執り成し主」でおられる主イエスのお祈りに限りなく収斂されねばならない。それゆえ、わたしたちは、「共に執り成し、共にまことの執り成し主イエス・キリストを求める群れ」であり続けたいと祈り、願う。

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