人を分け隔てなさらない神

7月2日説教

梁在哲牧師

 

ルツ記1章1~18節       使徒言行録11章4~18節  

ペトロは、四隅は四方の方角を現わし、布に入った生き物は、世界の全ての民族を示す不思議な幻を通して、神の御旨を受け入れ、同じく不思議な幻を見たカイサリアのローマの百人隊長、コルネリウスと出会った。その後、ペトロは、コルネリウスの家で主イエスの福音を告げ、「神は、人を分け隔てなさらないことがよく分かりました」と告白し、証した(使徒10:34)。ところが、ペトロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちは、彼を厳しく非難した。ユダヤ教では、イスラエル民族と異邦人とは、厳格に峻別され、救いは選ばれたイスラエルの民のみに与えられるとされていたからである。そこでペトロは、最近経験した不思議な幻を通して異邦人ローマの百人隊長コルネリウスと出会い、彼らに伝道し、主の御名によって洗礼を受けるように命じた次第を順序正しく説明した。(使徒11:2~9)。

「人を分け隔てる」ことは、ギリシャ語で「プロステタグメナ」と言い、主なる神は、人をその外見や身分、またうわべなどによって差別なさらない一方、人間的な思いや人情などに偏らないことをも示している。私どもの教会は、新しい契約のイスラエルの民として聖餐の度に、「この杯は私の血による新しい契約である」ことを確かめつつある。ところが、その新しい契約による「聖別」を一部の教会は、「差別」だと、決めつけている。しかし、その聖餐の乱れは、正に「人を分け隔てる」ことを誤解し、間違った解釈がもたらしたものではなかろうか。主イエスは、サマリアとガリラヤの間のある村で重い皮膚病を患っている10人を癒してくださった。しかし、自分が癒されたことに気付き、大声で神を賛美しながら戻って来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した者は、サマリア人一人しかいなかった。主イエスは、異邦人と呼ばれ、軽蔑されていた一人のサマリア人を「分け隔てなさらなくて」癒してくださり、「あなたの信仰があなたを救った」と言われた(ルカ11:11~19)。

主なる神は、モアブの異邦人女性ルツを通して「人を分け隔てなさらない」ことをお示しになった。それゆえ、ルツはダビデの4代前の祖先となり、彼女の念願は、主なる神の祝福の源となった(ルツ1:16~17)。詩編の記者は、主なる神の救いが地の果てまで全ての人々に注がれ、全世界の人々が神にひれ伏し、御名を褒め称えるように祈っている(詩編22:28)。その祈りは、聖霊に満たされ、押し出された初代教会の働きを通して代々の教会に受け継がれ、全世界に福音が宣べ伝えられ、私どもの教会の祈りにもなり続けているのではなかろうか。父なる神は、御子イエス・キリストの十字架の犠牲を通してご自身と人間、また人間同士の間に立ちはだかっている「敵意」という隔ての壁を取り壊し、滅ぼされた。どうか、聖霊に満たされ、押し出された者として御子イエス・キリストが再び来られるその日を待ち望みつつ、「人を分け隔てなさらない神」の御前に全世界の人々がひれ伏し、御名を褒め称えるように執り成しの祈りを捧げ続けたいと願う。

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