騒ぐな。まだ生きている。

7月9日説教

梁在哲牧師

 

エレミヤ書38章1~13節      使徒言行録20章7~12節

主イエスは死んだラザロをよみがえらせてくださり、ナインという町で棺に納められ、運ばれていたある母親の一人息子を、また、会堂長ヤイロの娘を生き返らせてくださった。使徒パウロは、第三次伝道旅行を締め括るためにトロアスで七日間滞在した。ところが、夜中まで長々と続いたパウロの話の最中に、三階から転落して死んだ若者が生き返える奇跡の出来事が起きた(使徒20:9)。しかし、何よりも大事な奇跡の出来事は、主イエスご自身死人の内より三日目によみがえられた、主の復活の出来事ではなかろうか。さて、パウロは、すぐ降りて行き、転落した若者の上にかがみ込み、抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている」と言った(使徒20:10)。主イエスは、会堂長ヤイロの娘を生き返らせてくださった時、「なぜ、泣き騒ぐのか。子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と死んだ娘の復活を宣言された(マルコ5:39)。パウロも、自分の力ではなく、へりくだって主イエスの力に依り頼って、「騒ぐな。まだ生きている」と死んだ若者の復活を宣言した。主の復活の宣言の前にある者は心が定まらなくて泣き騒ぎ、ある者は心を静かにして心が定まる。

預言者エレミヤは、主なる神より召された際、主の言葉が彼にこう臨んだ。「主は手を伸ばして私の口に触れ、主は私に言われた。『見よ、私はあなたの口に私の言葉を授ける』」と(エレミヤ1:9)。ところがエレミヤは、ユダのゼデキヤ王の時代、「出てカルデアのバビロン軍に投降する者は生き残るが対抗し続ければこの都は必ずバビロンの王の軍隊の手に落ち、占領される」と厳しく預言した。そこで、役人たちはエレミヤのことをゼデキヤ王に訴え、彼を水溜につり降ろして生きたまま泥に埋めようとした。しかし、泥の中で食べ物もなければ、水もなく、生きられない状況の中で、クシュ人エべド・メレクという見知らぬ外国人がゼデキヤ王に訴え、彼は水溜から引き上げられ、助けられた(エレミヤ38:2~10)。その後、ゼデキヤ王は、バビロンによって国が滅ぼされる寸前、エレミヤに最期の会談を願った。王は「あなたに一言、言葉を尋ねたいことがある」と求めた。近藤勝彦元東京神学大学長は、この箇所について「苦難の中で人間にとって何が大事なのか。またその時をどう生きることが出来るかを吟味し、先ず、主なる神の言葉を語る預言者に尋ね、まことの預言者である主イエスに尋ねなければならない」、と言われた。

それゆえ、わたしたちが主に尋ねつつ、主の声に聞き従う時、我々の苦しみは、主の十字架の苦難の中に受け止められる。遠藤周作の小説「沈黙」には、踏み絵の前に慄き、ためらう人々に「踏んでもよい。私は、あなたがたの苦しみを分かち合う。そのために私は世に来て存在するから」、と言われる主の声が聞こえて来る。主イエスが人間の罪と苦しみをご自分の身に背負い、救ってくださり、復活の新しい命を与えてくださったゆえに、我々の苦しみは、主の十字架の苦難の中に受けとめられ、覚えられ、主の復活の勝利にあずかることを許される。我々は、苦しみや試練の前に、まことの預言者でおられる主イエスに尋ねつつ、「泣き騒ぐな。まだ生きている」と言われる主の声に聞き従わねばならない。そして私たちの苦しみは、既に主の十字架の苦しみによって覚えられ、受け止められて主の復活の勝利にあずかっていることを覚えつつ、地上の信仰の歩みを前に進みたいと祈り願う。

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