苦難を味わった主に倣う群れ

7月30日説教

梁在哲牧師

 

列王記上19章9~21節      ペトロの手紙一3章13~22節

ペトロは、「御子イエス・キリストは、正しくないわたしたちを父なる神のもとへ導くために、またわたしたちの罪のために、ただ一度十字架の上で苦しまれ、死なれた」と証した(ペトロⅠ3:18)。それは、様々な非難を受け、迫害に苦しむキリスト者たちに、「キリストに倣ってそれらの苦しみに臨む」ように勧めるためであった。それゆえ、ペトロは、「義でおられるキリストのために苦しみを受ける者は、幸いであり、人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけない。また、神の御心ならば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」と勧めた(ペトロⅠ3:14・17)。

主イエスは、「キリストに倣ってそれらの苦しみに臨む者」は、それぞれ自分の十字架を背負って「わたしに従いなさい」と命じられた。主ご自身、いつも苦しい状況に身を置いて歩まれたからである。それゆえ、ご自分を歓迎しなかったサマリアの村人を激しく呪うヤコブとヨハネを戒められた。そして、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と、大袈裟に言う者に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われた。(ルカ9:53~58)。

カルメル山に集ったイゼベルの食卓に着く450人のバアルの預言者、400人のアシェラの預言者たちを全部剣で滅ぼしたエリヤは、アハブ王の妻イゼベルの復讐を恐れて挫けそうになり、逃げてしまった(列王記上18:19)。そこで主なる神は、神の山ホレブの洞穴でエリヤに「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ」と命じられた(19:15)。主なる神は、耐え難い苦しみの前で、自分の命を取ってくださるよう願うエリヤをその苦しみを厭わず、歩み続けるように押し出されたのである。

ダビデは、サウル王に命を狙われる苦しみの中、「いつまで」を繰り返し、嘆きながら主なる神に祈った末、主なる神の慈しみに依り頼り、その救いを信じ、喜びをもって主なる神を褒め称えるようになった(詩編13:2~6)。使徒パウロは、苦しみの中で真心をもって祈りつつ、「神の惠みによって今日のわたしがある」と告白した(コリントⅠ15:10)。月足らずで生まれ、神の教会を迫害し、使徒と呼ばれる値打ちのない自分のような一番小さな者にも復活なさった主イエスは、現われたからである(15:8~9)。

詩編の記者ダビデのように、また預言者エリヤのように苦難の前に挫けそうになり、逃げてしまうわたしたちのような弱くて小さな者にも復活なさった主イエスは、この主日礼拝の真ん中に臨んでおられる。わたしたちは、その大いなる恵みに心より感謝し、聖霊の御助けによって苦難を味わった御子イエス・キリストの御心に倣いつつ、真心をもって、「父なる神の惠みによって今日のわたしがある」、と告白する群れにあり続けたいと祈り、願う。

前回 目次へ 次回