雄々しくあれ、心を強くせよ

9月3日説教

梁在哲牧師

 

箴言25章2~7節    コリントの信徒への手紙二11章7~15節

使徒パウロは、異なったイエスを宣べ伝えても、受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、それらの事柄の深刻さに気付かず、鈍くなって、軽い気持ちで受け止めていたコリントの教会の人々のことを心配していた(コリントⅡ11:3~4)。しかし、パウロは、ただ心配するだけにとどまらず、コリントの教会の人々を高めるため、祈りながら、「自らを低くして仕え、無報酬で福音を宣べ伝えた」と言っている(11:7)。パウロは、自分がコリントの教会の人々を愛していることを神が既にご存じだから「自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせる」、その誇らしい働きが出来るのではなかろうか、と証した(11:10~12)。パウロは、自分の誇りの根拠と源は、決して自分の力や能力にあるのではなく、ただ父なる神の誉れにあることを明らかにした。

箴言の記者は、「うぬぼれることなく、へりくだって立ち、この世で隠れたように信仰の道を歩み続けることを主なる神は、褒めてくださり、ご自分の誉れとしてくださる」と語り継いでいる(箴言25:2~6) 。安息日に食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったイエスは、宴会に招かれた者が上座を好んで選ぶ様子をご覧になって「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われた(ルカ14:11)。御子イエス・キリストご自身、自分を低くし、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でおられたゆえに、父なる神は、御子を高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった(フィリピ2:8~9)。

詩編31編は、サウロ王から激しい迫害を受けていたダビデの「受難者の祈り」として言われる。ダビデは、その苦難の中で「へりくだって信心深い者は、すべて主なる神を愛し、主なる神を仰ぐ者は、すべて雄々しくあれ、心を強くせよ」と祈った(詩編31:24~25)。主なる神は、これからモーセの後を継ぐヨシュアに「強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地をこの民に継がせる者である」と命じられた(ヨシュア1:6)。その意味において我々には、教会の次の世代に確かな信仰を継がせる務めが託されている。わたしたちは、聖霊の御助けによって、雄々しくなり、心を強められ、自分を低くし、へりくだって、すべてにおいて父なる神の誉れになるように御子イエス・キリストの御名によって祈り、願う。

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