キリストに捉えられている者

8月27日説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記23章10~13節 ローマの信徒への手紙14章1~9節

使徒パウロは、いたる所で主イエスの福音を宣べ伝え、教会を造り上げる恵みにあずかったが、その一方、様々な問題にも直面していた。それらは、主イエスが再び来られる前、既に死んだ者はどうなるだろうか、或いは、偶像に備えられた肉を食べるかどうかといったものであった。ローマの教会も例外ではなく、パウロの表現を借りれば、自ら肉食や飲酒を禁じて厳しく守る「信仰の弱い人」があれば、それらのことから自由な者もあった。その問題についてパウロは、「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と明らかにした(コリントⅠ8:13)。

それゆえ、パウロは、ローマの教会の人々に、「互いに相手のことを非難し、責めることなく、互いに認め合い、良い聖徒の交わりになるように」勧めた(ローマ14:1~3)。それこそ、神の御旨であり、一人一人の召し使いを立たせるのも倒せるのも神は、お出来になるからである(14:4)。そしてパウロは、ひとり一人は、互いにキリストに結ばれて、捉えられている「わたしたち」であることを語り続けた。主イエスは、十字架の上で死なれ、三日目に死人の内より復活され、生きる者と死んだ者の主となられたゆえに、パウロは、「わたしたちは,生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」と告白した(14:8~9)。

出エジプト記23章は、社会福祉や社会安全網(セイフティ・ネット)に関する掟ではなかろうか。主なる神より命じられた安息年の規定を忠実に従いゆくことこそ、他の貧しい人々を助けるようになるからである。それゆえ、イスラエルは、主なる神より、安息日と共に安息年も、七年目には、自分の畑に自然に生える作物を「あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい」と命じられた(出エジプト23:10~11)。主なる神より命じられた掟を忠実に従いゆくことこそ、貧しい人々を助けるようになり、延いては人の命を救うようになることを主イエスは、御自ら証された。安息日に食事のためにファリサイ派のある議員の家を訪ね、水腫を患っていた人を癒してくださったからである(ルカ14:1~5)。

詩編92篇は、イスラエルの民がバビロニアに連れ出された捕囚期以降に書かれ、全てにおいて主なる神に信頼をよせる「安息日の讃美」として知られている。詩編の記者は、「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえ、主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります」とイスラエルを祝福し、「白髮になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし述べ伝えるでしょう」と民への祝福をも歌った(詩編92:13~16)。父なる神は、その独り子を十字架の犠牲にお与えになるほど世を愛してくださり、御子イエスは、十字架の死にいたるまで従順でおられ、生きる者と死んだ者の主となられた。どうか聖霊の御助けによってわたしたちは、キリストに結ばれ、捉えられている者としてレバノンの杉のようにまっすぐにそびえて立つことのみを追い求めず、草のように茂ることをも認め合い、互いに助け合い、仕え合う道を全うすることが出来るように祈り、願う。

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