主の言葉にあって新しくされる者

9月17日説教

梁在哲牧師

 

創世記37章12節~28節  コロサイの信徒への手紙3章12~17節

使徒パウロが牢屋の中で書いたエフェソ・フィリピ・コロサイ・フイレモンへの手紙は、獄中書簡と呼ばれる。コロサイは、エフェソから東の方へ約160キロ離れたブルギア州の大都市であったが、新約の時代には、衰退して小さな町となった。紀元前3世紀頃、バビロンやメソポタミアに連れ出されたユダヤ人たちの中で約2千人がブルギア州に移住させられた。コロサイ教会は、パウロが直接、造り上げた教会ではなかったが愛弟子、エパプラスが代わりに造り上げた教会であった。後にエパプラスは、ローマの牢屋を訪ねて来てコロサイ教会に異端の説が入り込んで様々な問題を起こしていることをパウロに報告した。そこでパウロは、イエス・キリストのみ、唯一の救い主でおられ、十字架の贖いを通して、父なる神と人間の間で執り成し主となり、教会の頭となられることを手紙で告げた。

パウロは、イエスを救い主として信じる者は、新しい霊的なイスラエルとして神に選ばれ、古い人間を脱ぎ捨てて、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けるように勧めた(コロサイ3:12~14)。そして、その人の内には、キリストの言葉に満たされ、豊かに宿り、やかましいシンバルのようなものではなく、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえるように勧めた(16節)。それゆえ、我々は、礼拝毎に、神に選ばれた新しいイスラエルとして、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けて、主にあって新しい者とされることを共に祈らなければならない。そして、キリストの言葉と教えを心に刻みつつ、生きるように、互いに励まし合わなければならない。詩編37編は、「摂理の鏡」と呼ばれ、「何故悪人が栄え、繁栄し、善人が苦境に陥るのか」という問いに答える賛歌である。詩編の記者は、詩編と賛歌と霊的な歌により、やかましいシンバルのようなものではなく、沈默して主に向かい、主を待ち焦がれ、感謝して心から神を褒め称えている(詩編37:7)。 

ヨセフの物語は、ヨセフと共におられ、想像すら出来なかった全く新しい道へ導いてくださる主なる神の不思議な摂理が描かれている。殺意に満ちた兄たちによってヨセフは、穴に落とされたが、兄ユダの執り成しによってイシュマエル人に売られ、後にエジプトで夢を解く能力によってついに総理大臣になり、新しい人生の道へと導かれる(創世記37:26~27)。放蕩息子は、父から財産を前もって分与を受け、放蕩の限りを尽くした末、苦しい状況の中で悔い改めるようになり、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」と父に喜んで迎え入れられたゆえに、まったく新しい人間としての道を歩み出すことが許された(ルカ15:24)。放蕩息子のような神に背き、不平を漏らし、また神に敵対していた我々を父なる神は、御子イエス・キリストの十字架の贖いを通して福音と主の御言葉を通して、変えられ、全く新しい者としてくださった。その大いなる恵みに感謝し、心から御名を褒め称えつつ、聖霊の御助けによって主の言葉にあって日々新しくされるように互いに励まし合い、共に祈り、願う。

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