真理に注がれている主の御目

9月24日説教

梁在哲牧師

 

アモス書8章4節~7節  テモテへの手紙一6章1~12節

テモテはパウロより霊的息子と呼ばれるほど愛され、彼の働きを助けた。パウロは、エフェソで働いていたテモテ宛に、「凶暴なオオカミの群れが羊の群れを攻撃し始めたので」そこにとどまり、問題を解決するように手紙を出した(テモテⅠ1:3)。また、主イエス以外に執着することこそ、真の信仰の敵となり、殊に金銭に執着し過ぎて堕落してしまうことを警告した。しかし、パウロは、決して金持ちになること自体を否定した訳はなく、金持ちになろうと執着する者は、誘惑に陥ることを警戒した。何故ならば、欲望を満たすため全ての悪い手段に頼り過ぎたあげく罠に陥り、ついに滅亡と破滅に陥ることになるからである。その結果彼らは、他人への思いやりや配慮を失い、他人に及ぼした無関心などの苦しみがとげのように自分を突き刺してしまうのである。それゆえ、パウロは「これらのことを避けて正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と勧めた(テモテⅠ6:9~11)。

預言者アモスは、紀元前8世紀半ば、北イスラエルで羊飼いとして、また桑の木を栽培する者であった。彼は、堕落への神の裁きを警告し、その預言は間もなく成就され、北イスラエルは、アッシリアに滅ぼされた。当時の北イスラエルは、ソロモン王時代に負けないくらいの繁栄を謳歌した。しかし、その繁栄と豊かさの裏には、貧しい者への搾取や、迫害されている者の苦しみにも拘わらず、彼らは、人々の苦しみに無関心で、その痛みや悲しみに鈍くなり、無感覚であった。アモスは、繁栄の陰で富む者たちの行っている搾取的な罪を見抜いてそれらを「商人の不正」にたとえて厳しく戒め、「わたしは、彼らが行ったすべてのことをいつまでも忘れない」と主なる神の裁きが下ることを預言した(アモス8:4~7)。

今日の繁栄や豊かさは、弱くて貧しい者たちの安い労働力が搾取され、大きな犠牲を払った結果ではなかろうか。主イエスは、主人の財産を無駄遣いした「不正な管理人」のたとえ話しを言われた(ルカ16:1~9)。ところが、管理人の不正とアモスが預言した商人の不正とは、同じ不正にも拘わらず、不正な管理人は、無関心で無感覚な者ではなく、主人から「抜け目のないやり方」だと、褒められるほどずる賢く、敏感な者となって自分の失敗に対応した。それゆえ、主イエスは、永遠の住まいの中に安住していると思い、油断している光の子よりも、この世の子らは、永遠の住まいに迎えてもらうために「賢く、抜け目がなく」振舞っている、と言われた。

詩編の記者は、主なる神以外のものや自分の力に頼り、自分の口の言葉に満足する者の空しい現実とその人間の栄華のはかなさを歌い継いだ(詩編49:12~14)。わたしたち弱い人間の目には、この世の空しい誉れやはかない富ばかりが映されるが、しかし、父なる神の御目は、この世の名誉や富を遥かに超えられ、真理でおられる御子イエス・キリストのみに注がれておられる。わたしたちは、聖霊の御助けによって自分の力に頼らず、また自分の言葉に満足することなく、自分自身を見つめつつ、例え、自分の信仰の歩みが失敗に遭ってもそれらをしっかり受け止め、乗り越えて御心に従い歩み続けることが出来るように切に祈り、願う。

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