慰められる者ともだえ苦しむ者

10月1日説教

梁在哲牧師

 

アモス書6章1節~7節     ヤコブの手紙2章1~9節

ヤコブの手紙は、パウロ書簡と区別するためにペテロ、ヨハネ、ユダの手紙を含めて「七つの共同書簡」、また、沢山のことわざが出て来るゆえに、「新約の箴言」とも呼ばれている。ヤコブは、ペテロとヨハネと共にエルサレム教会の指導者として教会の中で裕福な者が貧しい人を軽んじていることを厳しく戒めた。そして、神の御心は、人間の人智と真逆な所にあり、「神は世の貧しい人たちをあえて選んで信仰に富ませてくださる」、その逆説(パラドックス)を証している(ヤコブ2:5)。

使徒パウロも御子イエス・キリストの十字架を通して明らかにされる父なる神の御心の逆説を証した。すなわち、「十字架は異邦人には愚かなもの、ユダヤ人にはつまずかせるものであるが、主に召された者は、神の力、神の知恵である十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と証した(コリントⅠ1:23~24)。そして父なる神は、「知恵や力ある者に恥をかかせるため、世の無学で無力な者を選ばれた」と証し続けた(27節)。

ある金持ちは、生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロのような貧しい人に施す、「他人に良いもの」には、全く関心がなく、自分の楽しみだけを満たした。金持ちにとって富は、神の祝福のしるしであり、貧しさは、裁きの象徴であるがゆえに、自分の富を楽しみながら貧しい人々との間にある大きな淵を埋めようとしなかったからである。それゆえ、主イエスは、金持ちの振る舞いを罪に定め、アブラハムは「ラザロは、慰められ、金持ちは、もだえ苦しむのだ」と言った(ルカ16:25)。

預言者アモスは、裕福な権力者たちのうぬぼれや安逸を呪い、罪に定め(アモス6:1)、富と力、両方を握って贅沢を極めながら、弱い人々の苦しみや痛みには無感覚であった彼らは、主なる神の裁きに直面すると預言した。(6~7)。ステファノも殉教する前、アモス書を引用し(5:25~27)、イスラエルの家がその不信仰のゆえに滅ぼされ、バビロンのかなたへ連れ出される神の裁きを告げた(使徒7:42)。また、ヤコブもエルサレム総会でアモス書を引用し(9:11)、ダビデ王国は、バビロンに滅ぼされたが、メシア王国で受け継がせる神の回復を証した(使徒15:16)。

詩編の記者は、主なる神に逆らう者の安泰やうぬぼれに疑問を抱き、悩んでいた(詩編73:3)。しかし、その疑問は答えられ、悩みは、解決される。「主なる神を遠ざかり、御もとから迷い去る者は一時、繁栄しても結局、滅び、絶たれるが、神に近づき、避けどころを置く者は幸いで、御業を語り伝える使命を担い、祝福される」からである(27~28)。父なる神は、御子イエス・キリストの十字架の犠牲を通してわたしたちとの間にある大きな溝を埋めてくださり、御前に近づくことをお許しになった。どうか、その大いなる恵みに感謝し、聖霊の御助けによって常に弱い者に寄り添いつつ、主イエス・キリストの福音を語り伝えることが出来るように祈り、願う。

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